数年前まで、中国人と日本人の違いは何かということに関心があった。また、中国人とは云々、と好んで講釈する傾向が自分にあった。しかし最近そういうことに全く興味を失ってしまった。私がもし社会学や文化人類学の研究者だったら民族の性質の差異を取り上げてその特徴を分析したり分類することは、何らかの学問的な意義があるに違いない。しかし、実際の生活上は、そういった分析は何の役にも立たないように思う。
最近あるブログでこんな記述を見た。
在日韓国人がなぜ嫌われるかということを、執筆者が考えるところの彼らの欠点を挙げ連ねて解説しているのだが、「ただし、普通に働いて、税金も正しく納めれば文句も言わないし、都はるみさんのように素晴らしい歌手や経営者の方は尊敬していますよ」という注釈が付いている。ならば、そこには「嫌われる在日韓国人」と「素晴らしい在日韓国人」という二つのカテゴリーが存在するわけだ。どちらも在日韓国人である。
またその文章には「がんばってる人たちは、国籍うんぬんではなく応援したいと思います」というコメントが寄せられている。在日韓国人の中でも素晴らしい人たちに関しては韓国人としての国籍を不問にして、つまり韓国人というカテゴリーからはずして扱うという。始めからある分類項目にある種のイメージや価値観を付与しておいて、個々の具体的な事物が目の前に現れた場合、そのイメージから外れたものはカテゴリーの中に組み入れない、というのである。
社会学者や文化人類学者或いは社会評論家たちが分析しているように、ある民族や文化の成員に一般的に共通する性質というのは当然ある。それは地域的、文化的、社会的に分類されたカテゴリーの中の個々のサンプルから集積された抽象的概念である。ところが逆に、個々の人間をその集積された抽象的概念に当てはめようとすると、どうしても無理が出てくる。
「中国人とはこういうものだ」と滔滔と持論を述べながら、私は脳裏に個々の人間の人物像を思い浮かべる。すると、私の口からすべりでた言葉は次から次へと真実味を失い色褪せ、煙となって宙に拡散する。それは実体を伴わない像である。実際の生活において付き合わなければならないのは、一人一人別々の個性を持って生きている人間なのだ。