悲しむ人、困る人

  私が死んだら、悲しむ人はいるかもしれないが、困る人はおそらくいないであろう。人の命に重さの違いはないと言うけれど、偉大な哲学者や文学者、科学者、一国の首相、大統領など社会に影響力を与える者の死と、一介の市民の死とでは、社会にとっての損失という意味では、その重さに大きな違いがある。
 毎日の散歩コースの途中、橋の下をくぐると、傍らにホームレスの宿がある。青いビニールシートで囲った簡易な小屋があり、その前にはきれいな自転車が一台、地面には焦げ後のついた石の竈がある。カシャンカシャンと空き缶をつぶす音が夕闇に響く。寝る場所と、食べるものと、移動の足と、労働と。そこにはシンプルな生の形態がある。
 彼が死んだら悲しむ人はいるだろうか。

     如果我死了可能有人会悲痛,但恐怕没有人会为难。虽然人们说人的生命没有轻重的差别,但从社会的损失这个观点来看,还是有很大的差别。与伟大的哲学家、文学家、科学家或一个国家领导等具有社会影响力的人的逝世比起来,一个普通的市民的逝世毕竟还是微不足道的。
     我每天去散步的路线中会从桥下走过,有个流浪者就在那里安家。那儿有个用蓝色的塑料布围成的简易小屋, 前面有 一辆 干净的 自行车,傍边地面上有个烧焦的石灶。 还能听见压碎空铁罐的咔嚓咔嚓声。睡觉的地方、吃的东西、交通工具、还有劳动,就以这么很简单的形态生活着。
     如他死了,有没有人悲痛呢。

[此帖子已经被作者 2007-11-20 编辑过]

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