『スローボートで中国へ』

  『スローボートで中国へ』という旅行記がある。著者はギャヴィン・ヤング(Gavin Young)、日本語訳は冬樹社より椋田直子訳で1989年に出版されている(原作は1987年出版)。ヨーロッパから中国まで船のみを移動手段と決め、大小の船を乘り継ぎながら旅をした7ヶ月間を記した紀行文である。
 その中にこんな記述がある。 

…私はアンダマンで感じた疑問をエマーソンにぶつけてみた。「日本軍のやり方が腑に落ちないんです。せっかく英国人を追い出したのに、島民を慰撫するどころか、虐待して。インド人の協力者まで手荒く扱ったというのは、どういうわけでしょう」
 エマーソンはシンガポールで日本軍の捕虜になった経験を持つ。「日本人は変わっているんだ。子供に機関銃を持たせたようなもんでね。危険このうえないが、うまくやればごまかすこともできるし、意外に気のいいところもある。…」 

 著者のギャヴィン・ヤングは1960年からイギリスの新聞、オブザーバーの海外特派員を務め、世界各地の紛争や革命を取材してきた記者である。本書は、旅をしながら通り過ぎる各地域の紛争の歴史に触れていて、空間的地理的な旅の記録だけでなく、時間軸に沿った移動の記録、歴史を思い起こす旅の記録ともなっている。
 
旅の終わりに著者は香港で古い友人、ドナルド・ワイズに会い旧交を温める。ドナルドは「日本軍の捕虜になって、あの悪名高いクワイ川にかかる橋を渡る鉄道の敷設作業に従事した経験を持」つ。そして彼は1、2年前、当時の日本兵と捕虜の生き残りが橋の上で再会するという催しに参加した。 

「記憶どおりに残忍そうだったか?」
「日本兵の大半は農家の出さ。残忍そうに見えるかって?いや、そうはいえない。小柄で日焼けしているだけだ。当時は捕虜を殴るにも、膝をつかせないと手が届かなかったものだ。」

「日本軍の上官は捕虜だけでなく、部下の日本兵も殴ったり蹴ったりしていた。俺たちもこの目で見たんだ。再会した時、元捕虜の誰もがそれを口にしていた。だからって許せることじゃないが、なるほどとふに落ちる部分もかなりある。」 

 時々、第二次世界大戦の中で日本が行ったことを考える。いったい何が間違っていたのかと。戦争とはそういうものだから仕方がない、と言う人たちがいる。けれど、いろいろ考えてみると、戦いにも真っ当な戦いと、そうでない戦いがあるような気がしてならない。関連する文章を目にする度に、当時の日本は、本来、ある目的を達するための手段である暴力が、手段でなくなり、それ自体が組織を動かす原動力となって、ただやみくもに国家全体が無方向に突き動かされていたのではないかと思う。行使される集団の暴力をコントロールするシステマティックな機能が麻痺する恐ろしさ、はっきりした意思によって方向づけられることのない暴力の行方を思う。そして、それはもしかしたら、意思の所在があやふやになりがちな日本の社会の持つ性質に由来するものであるのかもしれないと思うのである。

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