目からうろこ

 
 どんな瞬間に興味をかき立てられ面白味を感じるかというと、いままで思い込んでいたことが何かのきっかけで、あれ?違う?と発見されるとき、世界が変わる瞬間である。ほんのささいなことでも、どんなにくだらないことでも、その発見によって、今まで当然のごとく眺めてきた世界がほんの少し角度を変える。その、ほんの少しが、連鎖的にカタカタと、私の世界観を組み替えていく。

 中学生のときにマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読んで、主人公のスカーレット・オハラに憧れた。強い意思と行動力、賢さ、情熱、美しくたくましく、すばらしい女性だと思った。映画でスカーレットを演じたビビアン・リーの大きなジグゾーパズルを完成させて壁に掲げた。(今でもそれは私の部屋にある。)
 『風と共に去りぬ』は私にとってずっとバイブルのようなもので、大学生となったある日、私はそんな思い入れを同級生の男の子に話した。それを聞いた彼は一言、
「あんなわがままな女、どこがいいんだ?」
 びっくりした。こんなすばらしい女性はいないと思っていたその同じ対象を「わがままな女」と捉える視点があるとはそれまで露ほども想像しなかった。私がそれほどまでに憧れて崇拝する対象を歯牙にもかけず切って捨てる視点、人とは、人によってこれほどまでに感じ方が違うものなのか。
 私はひどく感じ入って、女性の友人に聞いてみた。『風と共に去りぬ』のスカーレットについてこれこれこういうことを言われたんだけど、どう思う?と。すると彼女は遠慮がちに言った。
「私もどっちかっていうと、メラニーの方が好きなんだけど。」
 そうか…、そうだったのか…。まだ目に少し残っていたうろこが、完全に落ちた。

 社会人になって、つきあっていた男性がある日、友人の結婚式に出席するので、いったん私の部屋に寄って服を着替えて出かけるということになった。礼服に着替え終わった彼は、胸ポケットに白いハンカチが必要だと考え、私に、白いハンカチを貸してくれ、と言った。私は、持ってないと答えた。すると彼はむっとして、「女なのに、白いハンカチも持ってないのか」と言ったのである。
 彼は普段、亭主関白的だとか、男性上位だとか、いばりん坊だとか、そういうタイプでは全くない。フェミニストで理性的な性質である。私は驚いた。
 当時私には、おそらく、私のものは私のもので彼に所属するものではない、彼のものは彼のもので私に所属するものではない、という明確な区別、線引きが頭にあって、同様に、彼が持っていないものの責任は彼に所属するもので私の責任に帰すべきものではない、ということが自明の理としてあった。だからそこで私の責任が問われたのは、私にとって青天の霹靂だった。
 その時私が全く憤りを感じなかったというのは今でも不思議に思うのだけれども、正しさの主張というものは比較や対立において自己の信念に基づき行われるものであって、この時は、信念も何もなくただうすぼんやりと自分の身の内に自然に形成されて自分でさえも意識していなかったひとつの考え方が、異質なものと出会うことによって突然はっきりした形をとって立ち現れてきたことの驚きや面白さしか感じなかったのである。

 過去のことで、人や場所の名前とか、何年に何があったとか、数字に関する記憶力がすこぶる悪い私だが、外面には現れない意識の中で起こったささいな世界観の転回の場面だけは忘れずに記憶に残っている。
 けれど、このように新しい世界に出会う新鮮な驚きは年を経るごとに減ってきている。きっと頭も心も柔軟さを失ってきているからに違いない。

 
 

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