どどいつ(7)~今宵生まれる海月もあろう

前回からの続き。

 これまで、『[風迅洞私選]どどいつ万葉集』(徳間書店)という本の中から、私の気にいった“句”を紹介してきました。最後に、私の好きな“作者”の句を紹介したいと思います。
 本ではあいうえお順の作者ごとに句が並べられているのですが、あ、この句いいな、と思って次の句に進むとそれもやっぱりよい、次もまた、と思う作者があって、どこがどう好きなのか自分でもよくわからないのですが。たぶん感覚的なものなのでしょう。


富永谷衣

泣けば子とりがすぐ来るなどと 恐い浮世の知り初め
今宵生まれる海月(くらげ)もあろう 朧凪ぎきる春の海
二人きりをと願っていたに なぜか淋しい二人きり

佐々木左右
今宵限りとこめたる霭(もや)が 明けてそのまま初霞
暮れりゃ朧の八百八町 明けりゃ霞の四里四方
ざくりざくりと初蓮根の 刻み心地となる厨
泣きのなみだを傘松へ 雨と濺(そそ)いで帰る雁
崖の高さに我が身を置いて 独り味あふほととぎす
 一句目、霭(もや)と霞(かすみ)の違いは、霭(もや)よりも濃くて見通しが悪いのを、霞(かすみ)というそうです。霭(もや)はいつの季節にも使えますが、霞(かすみ)は春の用語です。今夜だけだと思っていた霭(もや)が、翌朝には意外にもより濃くなり、それがそのまま春の初霞(はつがすみ)となって視界をさえぎる。
 二句目、朧(おぼろ)と霞(かすみ)は同じものですが、出る時間で区別されます。夜に出るのが朧(おぼろ)、昼に出るのが霞(かすみ)です。
 人生とは、いつまで経っても晴れることのない霧(きり)のなかをおぼろげな景色を頼りに進むようなものだという気がします。人の世もまた同じ。右を向いても左を向いてもなにもかもが曖昧模糊としています。
 今宵限りの霭(もや)は明けて翌日そのまま霞(かすみ)となり、暮れれは八百八町は朧(おぼろ)に包まれ、明ければ四里四方は霞(かすみ)の中に。

 最後の句は“辞世の句”とのことです。崖の下には朧の中の八百八町、俗世から心を剥がし高いところでただ無心にほととぎすの声を味わう、そういう孤高の心境は静かで落ち着いたものでもあるし、また淋しかろうとも思います。


終わり。
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