母国に対して漠然とした愛情を抱いてはいるけれど、確固とした愛国心は持ち合わせていないつもりだ。けれども、時折中国語の文章の中で「小日本」などという言葉を目にすると、感情が少しざらつくような気がして、我ながらそれを不思議に思う。
日本に対する悪意と偏見に満ちた文章ならば、始めから目を通す気などさらさらないから別に構わないのだけれども、一見特別悪意があるようには思えない文章の中でひょっこりとその文字を目にしたときは、気付かずに棘に手が触れ、ちくっとして、思わず手を引っ込めてしまうような、そんな感じを覚える。
先日、ある中国語のブログを読んでいたら、「小女人」という言葉が出てきた。おや、なんだか女性蔑視の人らしい、と思って読んでいたら、「小女人」というのは筆者の恋人のことを指していて、それは二人の交際や感情のやり取りなどを記した愛情に満ちた文章であった。それで辞書で「小」の見出しを見ていたら、「小人」なら「人柄の卑しいつまらない人間」のことだけれども、「小人 儿 」だと「年上の人が未成年者に対する愛称」であるらしい。前述のブログの「小女人」はさしずめ、この後者のように親しみを込めた愛称として使われているのであろう。
一昔前の日本人の背の低さや日本が小さな島国であることから派生した言葉らしいが、漢字そのものの意味から言えば、小ささは必ずしも蔑視に繋がらない。愛らしさとか、繊細さとか、精緻さとか、細かいことに巧みであるとかの表現であることもある。ある一つの言葉だけにこだわらず、そこにどういう意味が込められているか、文章全体の意志というものを尊重すべきであるのかもしれない。
そう言えば、以前、こんなことがあった。
ある中国の若い女の子とチャットしていた時、彼女が自分の勤めてる会社の日本人の上司について愚痴をこぼし始めた。そして、
「まったく、あの『日本鬼子』ときたら、本当に頭にくる。」
と言ったのだ。私は、おいおい、と思った。
「ねえ、私が日本人だってこと忘れてない?」
と言うと、彼女はけろりとした調子で
「え?私が言ったのはその上司のことで、別に貴方のことを言ったんじゃないよ。貴方だってまさか気にはしないでしょう?」
とのたもうた。
はははは、なるほど。私はこの率直な「小姑娘」の頬にキスをしたくなった。
[此帖子已经被作者 2007-9-28 编辑过]