北京老学生さんのブログで、海外のメディアに載っている震災の写真を見た。日本のメディアの遺体を載せないという一律の自主規制には疑問を感じる。
日本の大手新聞に載っている写真を改めて気をつけて見てみると、両者の違いは、単に遺体の忌避だけじゃないように感じた。
受ける印象がずいぶん違う。海外のものは、人間の感情を直接的に映しているものが多い。日本の写真には表情があまりない。強い印象や強い感情を意図的に排除しているようにも見える。いや、意図的ではないのかもしれない。或いは、感情を抑えて、目の前の光景を均一に平板に切り取ることが、日本人の文化的習性なのかもしれない。日本画のように。
写真だけじゃない。震災以降、日本のメディア或いは世の中の空気は必死でパニックを抑えようとするがために、恐怖や不安や怒りや悲しみをも無理やり閉じ込めようとしているんじゃないかという気がする。それは果たしていいことなのか悪いことなのか。秩序正しく行動することは社会の安全にとってはいいことかもしれない。けれど普通の人間の自然な感情を社会の空気という圧力によって閉じ込めるのは、個人個人の人の精神を歪めるような気がする。
子どもたちの精神的ケアとか、遊びで笑顔をとか、呼びかけるのにも、デマや流言飛語を削除せよというのにも、ACジャパンがやたらと道徳的広告を流すのにも、どこか不穏な、奇妙な、病的なものを感じる。理屈ではどれも反対しようのない正しさを主張しているものばかりなだけに、余計に、胸騒ぎがする。本当にそれでいいのだろうか。
地震が起きてすぐの頃、テレビで何度も見たビデオの中に、高台から人々が津波に押しつぶされる家々を眺めている光景があった。大人たちが声もなく呆然と見ている中、一人子どもの、恐怖に泣き叫ぶ大声が響いた。この声はいつまでも私の耳に残っている。それ以降、日本のメディアを通して、こういう“叫び声”が聞こえてきたことはない。
朝日新聞では、毎日いろんな被災者の個々人の“物語”が多くのスペースを割いて紹介されている。顔写真入りで。しかし皮肉なことに、多くの人の話を数多く紹介すればするほど、個々人の顔の印象は、多くの被災者のうちの一人として、群集の中にまぎれ、薄まっていってしまう。
皆ががんばっている、がんばろうよ、がんばって、一丸となって、気持ちをひとつに、ありがとう、感謝してます、助け合おう、そんな綺麗な言葉だけが人の感情なのだろうか、それだけが事実なのだろうか。