氷のごとき妄心

 
 今年の1月からずっと気に病んでいることがあって、過ぎ去ったことはもう取り戻せないのだから忘れよう、前を向いて歩こう、と思っても、ちょっとした心の隙に折に触れて思い出され、どうしても振り切ることができない。
 そのつもりもなかった言葉がただ相手に誤解されたというならば、そこに何か行き違いがあったのだと考えるだけでよい。しかし、問題は、私が発した言葉の裏に、自分では意識していなかったよこしまな気持ちが込められていて、本当のところは誤解ではなく、相手が受け取ったそのままに自分が無意識のメッセージを送っていたのだ、と解釈する余地があるということだ。もし、自分が発した無意識の心を、思いもかけないところでいきなり目の前に突きつけられ、知らされ、あわてふためき、身の置き所を失っているというのがこの1月以来の動揺の真相ならば、自分という人間の生来のいやらしさや情けなさから、どう逃れたらいいのだろう。これは一生ついてまわるものなのか。

 そこで、沢庵和尚の言葉を念仏のように唱える。

 「本心は水の如く、妄心は氷の如し」

 思いつめて一箇所に凝り固まることは、氷のごとき妄心に捕らわれることである。心が固まってひとつところに留まれば、固まった氷が自由に使えないのと同じように、手も足も自由に洗うことができない。
 氷を解かして水に変え、どこへでも流れるようにして、手足も何もかもを洗えるようにしよう。水が自然に流れるように、体の隅々まで心を趣くままに自然に行き渡らせよう。

 どうせ一生ついてまわる“おのれの心”ならば、そこから逃れようとせずに、器によって形を自在に変える水の如く、のびやかに、自然に、流れるままに任せるのがいい、と理屈を自分に言い聞かせる。
 おのれの心から逃れようとせずに、おのれの心に執着しようとする“我執”を解かすのだ。

 言うは易し、行うは難し。


 

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