Freemasonry and Japan

フリーメイソン

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会員呼称: フリーメイソン
(団体呼称: フリーメイソンリー)
種類 友愛団体秘密結社非公開団体
目的 会員相互の特性と人格の向上をはかり、よき人々をさらに良くする
本部 各地域の各ロッジ
事実上の総本部イングランドグランドロッジ英語版
イギリスの旗 イギリスイングランドの旗 イングランドロンドン
ウェブサイト 事実上の総本部(イングランドのグランド?ロッジ)
United Grand Lodge of England UGLE (英語)
会員同士の親睦を目的とした友愛団体であり秘密結社
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フリーメイソンリーのシンボルマークの一つ。定規コンパスは石工職人のギルドだったことの名残。 上向き三角形(コンパス)と下向き三角形(直角定規)の結合はダビデの星を形成し、男と女、陽と陰、天と地、精神と物質など世界の二元性の融和を表現している。中央の「G」は至高存在を意味し、(GOD)と幾何学(geometry)、栄光(Glory)、寛容(Grandeur)等を意味する。また「G」にはグノーシス(Gnosis)の意味も込められている。フリーメイソンにおいて個々の建築道具は人間の美徳と対応し、直角定規は道徳、コンパスは真理、こては結束と友愛、槌は知識や知恵を象徴している。
フリーメイソンリーが用いるシンボルの一つ、プロビデンスの目
18世紀の備品。壁にプロビデンスの目。
エプロン、コルドン(たすき掛けの装飾品)、外衣など。
米国エドモンズのロッジ。
オーストラリアメルボルンアボッツフォードのロッジ内部。
宴会場、コンサート会場、フリーメイソンのロッジ、これらの用途として1836年に建設されたノルウェーのオスロにある「ガムレ?ローシェン」(den Gamle Logen[1]
1920年制定オリンピック旗古代ギリシア時代の古代オリンピックにならい近代オリンピックを提唱したピエール?ド?クーベルタン男爵は、フリーメイソンである[2]。1894年国際オリンピック委員会(IOC)設立時のメンバーであったアンプティル男爵は1890年にフリーメイソンリーに入会した[3]。初期IOCメンバー[2]で初代イギリスオリンピック委員会会長[4]デスボロー男爵は、1875年にフリーメイソンリーに入会した[2]
第1回大会(アテネ、1896年4月)は男性のみ参加資格がありまた1名の女性マラソン選手が非正規で参加し、4年1か月経た第2回大会(パリ、1900年5月-10月)から女性の参加が整備された。クーベルタン男爵は、女性の参加は男性にとって良からぬことであると考えていた[5]

フリーメイソン: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社

現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人に上り、うち15万人はスコットランド?グランドロッジならびにアイルランド?グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに[6]、200万人は米国のグランドロッジに所属している[7]

「フリーメイソン」とは厳密には各個人会員の事を指しており、団体名としては: Freemasonry(フリーメイソンリー)、: Franc-maçonnerie(フランマソヌリ)、: Massoneria(マッソネリア)、: Freimaurerei(フライマウレライ)、: Масонство(マソンストヴォ)である。以下、英語的な発音である「フリーメイソンリー」と記載する。なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド?ロッジは「フリーメイスン」と表記している[8]

この友愛結社(組合)は、管轄上、独立したグランドロッジもしくは一部が東方社(オリエント、大東社系)の形で組織され、それぞれが下部組織(下位のロッジ)から成る自身の管区を管轄している。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い、あるいは拒否したりして、境界を形成する[9]。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体が存在するが、それらはそれぞれが独立した組織である。フリーメイソンリーは秘密結社[10]または「semi-secret」(半分秘密の)[11][12]団体と表現する場合があるが、いかなる団体であれ団体内部の秘密というものがあり、そうした視点においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社なのであるというフリーメイソンリー側の意見もある[13]

フリーメイソンリーは「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念がある[14]

 

目次

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沿革[編集]

総説[編集]

起源とフリーメイソンリーについては対外的な資料が少ないため、諸説存在する。レギウス?マニュスクリプトとして知られるある詩人は、およそ1390年頃と疑われる、としており、これは諸説あるメイソン起源説の中では、もっとも早くに上るものである。[15] 16世紀には、スコットランドにメイソンのロッジMasonic Lodge)が存在していた、とする証拠もある。[16] 例えば、スコットランドのキルウィーニングのロッジには、16世紀後半の記録があり、それは1599年にあった第二シュワー法に言及している。[17] イングランドにおいては、17世紀中盤にはロッジが存在していたことを示す明白な書証がある。[18] 最初のグランドロッジである英国グランドロッジ(GLE、グランドロッジ?オブ?イングランド)は1717年6月24日に設立され、この日に、4つの既存のロンドンのロッジが合同で晩餐をしている。 こうして統括機関は素早く拡張され、殆どの英国のロッジが結合した。 しかし、少数のロッジは、GLEが企図した例えば第三位階の創設のような幾つかの近代化に憤然として、1751年7月17日にこれに対抗したグランドロッジを形成し、彼らはそれを古代英国グランドロッジと称した。[19] この「近代」(GLE)と「古代」の二つのグランドロッジは、1813年9月25日に英連邦グランドロッジ(UGLE)に統合されるまで、互いに覇を競った。 アイルランド?グランドロッジとスコットランド?グランドロッジは、それぞれ1725年1736年に形成された。 フリーメイソンリーは、1730年代までには古代、近代共に北米の英植民地に進出し[20]、多様な州グランドロッジを組織した。 独立戦争後、米国のグランドロッジは独立し、それぞれの州に根を下ろした。 何人かは、ジョージ?ワシントンを初代グランドマスター英語版として、これらを股にかけた合衆国グランドロッジの組織を構想したが、多くのグランドロッジが統合によって、自分達の権威が低下するのを望まなかったため、このアイディアは短命に終わった。[21]

古代であれ近代であれ、ロッジを運営するにあたって行なっているメイソンリーとしての活動内容に差はなかったのだが、こうした部門はF.& A.M.(Free and Accepted Masons)だったり、A.F.& A.M.(Antient Free and Accepted Masons)だったりと、そのネーミングに名残を見出し得た。

ヨーロッパの最も古い管区であるフランス大東社(GOdF)は、1733年に設立された。 しかしながら、大東社は至高の存在(メイソンでは、複数の宗教の会員がいることから各員が神と信じるものを最大公約数をとってこう表現する)への尊崇義務を会員規定から撤廃し、英語圏メイソンとの確執を引き起こし、両社は1877年頃、公式の関係を断絶した[22]。 こうした中で、グランドロッジ?ナショナーレ?フランセーズ(GLNF)が、一般に英連邦メイソンとの友好関係を保ち、世界と調和した唯一のグランドロッジとなった。 こうした経緯故に、しばしばフリーメイソンリーは相互に親善関係にない二つの系統から構成されるといわれている。

  • 英連邦メーソンとそれに連なる管区(グランドロッジと呼ばれる)の伝統、そして
  • 欧州大陸系の大東社とそれに連なる管区の伝統(グランドオリエントと呼ばれる)である。

ラテン系の地域においては、一説によると大東社系スタイルの大陸型メイソンが優勢を占めていたとされるが、英連邦メイソンと友好関係にあるグランドロッジも存在し、それは英メイソンと友愛関係を仲良く分かち合っている。 世界の他の地域においては、マイナーなバリエーションも存在するが、フリーメイソンリーの大部分は、英連邦メイソンのスタイルに近似の傾向にある。

通説[編集]

石工組合としての実務的メーソンリーが前身として中世に存在した、とする説もある。こうした職人団体としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたが、イギリスでは建築に関係のない貴族紳士知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた(思索的メイソンリー。「思弁的-」とも)。それと共に、フリーメイソンリーは職人団体から、友愛団体に変貌したとするのである。

または、実務的メイソンリーとの直接の関係はなく、その組織を参考に、貴族たちが別個に作ったのが、思索的メイソンリーであるともいう。中世ヨーロッパでは、建築はあらゆる分野の技術に精通する必要がある「王者の技術」とされ、建築学や職人の社会的地位は高かった。また、技術の伝承についても厳しい掟が設けられた。その神秘性から、実務的メイソンリーが貴族などに注目され、薔薇十字団の正体ではないかと期待する者もあった。もっとも、これについては実務的メイソンリーはあくまでも石工団体であり、期待は裏切られた結果に終わったようである。

石工団体を元にした名残りとして、石工の道具であった直角定規コンパスSquare and Compasses)がシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟(Entered Apprentice)、職人(Fellow Craft)、親方棟梁とも訳す。Master Mason)」の呼称が残っており、集会においては、元は石工の作業着であるエプロンを着用する。なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、かつて啓蒙思想の者が好んで使用し、ヨーロッパで流行したシンボルであった。

友愛団体に変貌したフリーメイソンリーは、イギリスから、商業や文化のネットワークを介して、ヨーロッパ諸国、ロシアアメリカ大陸、さらには西欧諸国従属下にあるアフリカやアジアの植民地にまで広まった[23]。民間人を対象とする国際的な互助組織がない時代だったので、会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンリーは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたかった。ウィーンのロッジに加入していたモーツァルトは、同じロッジのフリーメイソンに借金の無心をした記録が残っている。 フリーメイソンリーが広まった時期は、絶対王政から啓蒙君主、市民革命へと政治的な激動が続く時代でもあり、特定の宗教を持たずに理性や自由博愛の思想を掲げるヨーロッパ系フリーメイソンリーは、特定の宗教を否定することから、自由思想としてカトリック教会などの宗教権力からは敵視された。とりわけフランス革命の当事者たちの多くがフリーメイソンであったため、しばしば旧体制側から体制を転覆するための陰謀組織とみなされた。ナチス?ドイツの時代にはマルクス主義自由主義とともに民族の統一を阻む抹殺されるべき教説[24]として扱われ、弾圧を受けた。独立戦争にかかわった多くの会員がいたアメリカにおいても白眼視される傾向があった。ちなみにニューヨークの自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物という側面もあり、台座の銘板にはその経緯とメイソンリーの定規?コンパス?Gの紋章がきざまれている[25]

フリーメイソンリーの入会儀式は秘密とされたが、そのために、かえってさまざまな好奇心をかきたてた。トルストイの『戦争と平和』では1810年代のロシアのフリーメイソンの会合が描写されている。またモーツァルトの『魔笛』にフリーメイソンリーの入会儀式の影響を指摘する意見もある。

宗教団体とフリーメイソンリーの関係[編集]

カトリックとの対立関係は長く、1738年に時のローマ教皇クレメンス12世がフリーメイソンの破門を教書で宣告した(ただし、直接対立したのは前述のフランス大東社系が中心)。もっとも、カトリックの影響力低下もあり、もとよりイギリスなどプロテスタント(あるいはイギリス国教会)諸国では破門の影響はほとんどなかった。一方カトリックの少なくないフランスでは、両者の対立はカトリックによる一方的な圧力に留まらず、逆に政教分離を主張したフリーメイソンリーなどの影響で、公立学校から聖職者が追放される事態も起こった。1983年に破門は一応解除されたが、カトリックは公的にフリーメイソンを危険視する姿勢を崩していない。しかし、カトリック信徒でフリーメイソンリーに入会する者は少なくないという。

フリーメイソンに関する歴史やテンプル騎士団との関係については、M.ベイジェント、R.リー『テンプル騎士団とフリーメーソン』(林和彦訳、三交社刊)に詳説されている。

元フリーメイソンであった創始者による新宗教も多く、モルモン教の創始者ジョセフ?スミスならびに二代目大管長ブリガム?ヤング(加入はブリガム?ヤングが先)、エホバの証人ものみの塔聖書冊子協会)の創始者チャールズ?テイズ?ラッセルクリスチャンサイエンスの創始者メリー?ベーカー?エディらがいる。

社会奉仕団体とフリーメイソンリーの関係[編集]

概要[編集]

ロータリークラブ創設者P?P?ハリス。フリーメイソンである。
ライオンズクラブ創設者メルビン?ジョーンズの彫像。メルビン?ジョーンズはフリーメイソンである。

日本グランドロッジのグランドセクレタリー[28]であり2002年にグランドマスターを務めた[29][30]フィリップ?A?アンブローズによるとボーイスカウトロータリークラブライオンズクラブなどはフリーメイソンリーからの派生であるという[31]。フリーメイソンに関する書籍を著している皆神龍太郎(『トンデモフリーメイソン伝説の真相』『検証 陰謀論はどこまで真実か』等)によると、「フリーメイソンは何をしているのか」という問いはロータリークラブやライオンズクラブが何をしているのかという問いと同様であり、ボーイスカウトを思い浮かべてもよく、ボランティア活動も一生懸命で、フリーメイソンはロッジ内で商売や政治の話はできないので陰謀を巡らせるような組織でもないそうである[32]

フリーメイソンリーとは「全人類の兄弟愛という理想の実現」「文明というものがもつ真正で最高の理想実現」等を目的にする友愛団体であり、ボーイスカウト、ロータリークラブ、ライオンズクラブ等の社会奉仕団体のような慈善活動も行うが、慈善活動が全てというわけではない[13][33]

ロータリークラブの創始者であるポール?P?ハリスはフリーメイソンであったが、社会奉仕と慈善活動に専念する公開結社として、ロータリークラブを設立したといわれている。愛知県江南市のロータリークラブの話では、フリーメイソンリーからロータリークラブになった経緯としては、ポール?ハリスはフリーメイソンリーのように閉鎖的な秘密結社より開かれた組織を求めたのであろうということであり、ロータリークラブ側(RIA)は組織としてのフリーメイソンリーとの関わりは否定しているということである[34]。フリーメイソンの高須克弥(高須クリニック院長)の話ではフリーメイソンリーがロータリークラブと同様の組織であるかというと、全く違うようである[35]

ライオンズクラブでは、ライオンズクラブ国際協会の創設者メルビン?ジョーンズ[36]はフリーメイソンである[37]

ボーイスカウト[編集]

初期ボーイスカウトの指導者たち。
中央: ロバート?ベーデン=パウエル(メイソンではない)。
左: アーネスト?トンプソン?シートンコネチカットグランドロッジではメイソン特有の「ブラザー」ではなく「Mr.」になっている[38])。
右: ダニエル?カーター?ビアード(メイソンである)。
ボーイスカウトの創設者ロバート?ベーデン=パウエル[編集]

ボーイスカウトとフリーメイソンリーの関係において、ボーイスカウト創設者の英国陸軍少将ロバート?ベーデン=パウエルは妻オレブによるとフリーメイソンではなく[39]、娘のベティも父ロバートはメイソンのメンバーではないという[40]

ロバート?ベーデン=パウエルの弟デビッドはフリーメイソンであった[39]。ロバートの孫マイケルもフリーメイソンであり[39]、マイケルはオーストラリアのロッジ「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」の元?マスター(Past Master)である[41]

フリーメイソンリーのロッジ

「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」のように、ボーイスカウトたちによって作られたロバート?ベーデン=パウエルにちなんだフリーメイソンリーのロッジもあり[39]、「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」は、1929年、豪ビクトリア州知事でビクトリアグランドロッジのグランドマスターを務める[42]フリーメイソンのサマーズ男爵らの会議によりボーイスカウトのフリーメイソンロッジが計画され、設立された[43]。サマーズ男爵はボーイスカウトの理事長、副チーフ?スカウトを経て、1941年のロバート?ベーデン=パウエルの死後、ロバートを引き継いでチーフ?スカウトになった。「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」はロバート?ベーデン=パウエルの名が付けられた最初のロッジであり[39]、また存命人物の名がロッジに付けられることは異例であった[43]。ロバートはこのロッジのために「With best wishes for the success of the Lodge in its good work. Baden-Powell of Gilwell, 12th May 1931」と銘記した[39][43]

スカウトの名を冠するフリーメイソンリーのロッジ「スカウトロッジ」もある[44][45]

ジャングル?ブック

ロバート?ベーデン=パウエルはノーベル文学賞作家ラドヤード?キップリングと友人であった[39][46]。1916年、ロバートは低年齢のスカウトへの教えに適した物語が必要と思い、キップリングの著書『ジャングル?ブック』(1894年)をカブ?スカウト(ウルフ?カブ)のハンドブックのメインテーマに使いたいとキップリングに頼んだ[46]。キップリングは承諾した[46]。キップリングは1886年にメイソンリーに入会し1889年にメイソンリーを辞め、1909年に再びメイソンリーに参加し、1910年に名誉会員を務め、1922年に「Builders of the Silent Cities Lodge No. 12」の設立に関与し、その後生涯にわたりその設立したロッジの会員であった[47][48]

米国ボーイスカウト設立発起人ウィリアム?ディクソン?ボイス(メイソンである)。英国ボーイスカウト少年がウィリアム?ディクソン?ボイスに実践した善行により米国ボーイスカウトは設立された。その物語は文献による幾分の相違があるが、いずれにせよ米国ボーイスカウトの発案者はボイスである。
アメリカ合衆国のボーイスカウト[編集]
設立の由来

1907年に英国で発足したボーイスカウトが米国に設立されたのは1910年である。アメリカのボーイスカウトBSA)設立は英国のあるボーイスカウト少年の善行に由来する[49]。BSA設立発起人(incorporator)となる米国人実業家ウィリアム?ディクソン?ボイス1909年に英国ロンドンに滞在中、濃霧で道に迷ってしまい、ある少年がボイスを助けた[50][51]。その少年はボーイスカウトであり、ボイスがお礼のチップを用意しても、少年は人に親切にすることはスカウトの義務であると説明しチップを受け取らなかった[50][51]。少年に感激したボイスは、ロバート?ベーデン=パウエルに会い米国にボーイスカウトを設立することを提案し、アーネスト?トンプソン?シートンダニエル?カーター?ビアード(ダンおじさん)、ジェームス?E?ウェストの3人の協力のもと、1910年2月8日にBSAを設立した[51][52]。ロバート?ベーデン=パウエルと彼ら4人の設立者のうち(BSA設立前または設立後に)フリーメイソンであったことが確認されているのはウィリアム?ディクソン?ボイス[38][53]、ダニエル?カーター?ビアード[38][54][55]、ジェームス?E?ウェスト[38]の3人である。BSAの設立発起人となったボイスの他3人は設立時の役員に就任した。またダニエル?カーター?ビアードが組織していたSons of Daniel Boone(後にBoy Pioneers of America)は、BSAが設立されるとBSAに合併した[50][55]。ボイスが1915年に設立したLone Scouts of America1924年にBSAに合併した[50]

ダニエル?カーター?ビアード

ボーイスカウトにより「ダンおじさん」(Uncle Dan)として親しまれるダニエル?カーター?ビアードはフリーメイソンリーとボーイスカウトとの関係を最初に築いたフリーメイソンであるという[56][57][58][59]。またBSAへの貢献によりメソニック?ロッジの会員すなわちフリーメイソンにメダルが贈られる「ダニエル?カーター?ビアード?メソニック?スカウター?アワード」があり、これはフリーメイソンリーによる栄誉としてBSAの承認を得て創設された賞である[56]

ホワイトハウスオーバルオフィスにてボーイスカウトから敬礼を受けるフリーメイソンのハリー?S?トルーマン大統領。BSA設立時における大統領の役割としてはウィリアム?タフト(メイソン)が現職大統領、セオドア?ルーズベルト(メイソン)が前大統領としてBSA役員に就任した。
BSA初期役員等

BSA設立発起人ウィリアム?ディクソン?ボイスの他、BSA設立時の14人の役員[50]のうち(BSA設立前または設立後に)フリーメイソンであったことが確認されているのは、名誉会長のウィリアム?タフト[60][61]、名誉副会長兼チーフスカウト市民のセオドア?ルーズベルト[61][62][63]、副会長のミルトン?A?マクレー[64]、同じく副会長のベンジャミン?L?デュラニー(Benjamin L. Dulaney、1857年生)[65]、ナショナルスカウトコミッショナーのダニエル?カーター?ビアード(ダンおじさん)、チーフスカウトエグゼクティブのジェームス?E?ウェストなど。その他、チャールズ?イーストマングリフィス?オグデン?エリスらフリーメイソンと確認されている人物[55][66]が設立に関与した。

日本のボーイスカウト[編集]

第二次世界大戦後の日本においてボーイスカウトは日本のフリーメイソンリー復興に大きな役割を果たし、またフリーメイソンリー側では米国のメイソンたちが日本のボーイスカウトを支援する約束をした[67]1947年連合国軍占領下の日本におけるボーイスカウト活動再開を許可した連合国軍最高司令官ダグラス?マッカーサーはフリーメイソンであった[67]。マッカーサーは1949年9月から1951年4月の帰国までボーイスカウト日本連盟の名誉総長を務めた[68]。戦後のボーイスカウト復興に取り組んだボーイスカウトの幹部村山有三島通陽は後にフリーメイソンリーに入会した[67]

日本のフリーメイソンリーはボーイスカウト団体を支援している[69]

日本のフリーメイソンリーの恒例行事「メソニック子ども祭り」にはボーイスカウトが参加する[70][71]

 

日本のフリーメイソンリー[編集]

江戸時代のロッジ設立[編集]

日本に黒船で来航したフリーメイソンのマシュー?ペリー[65]

フリーメイソンが最初に日本に訪れたのは江戸幕府による鎖国政策の時代であり、1779年長崎港出島オランダ商館商館長として駐在したオランダ東インド会社イサーク?ティチングが初訪日のフリーメイソンであると考えられている[72]。ティチングがフリーメイソンリーに入会したのは1772年オランダ領東インドバタヴィアインドネシアジャカルタ)でのことである[72]。日本国内にメイソンリーのロッジ設立が始まったのはそれよりさらに後になってからである。

江戸末期の1853年開国開港)を日本に迫ったマシュー?ペリーはメイソンであった[73]。ペリーは1819年ニューヨークのホーランド?ロッジでメイソンリーに加入した[65]。ペリーを日本に遣わせたミラード?フィルモア米大統領は、フリーメイソンの集まりに参加した記録はあるが[65]、フリーメイソンではない[74][75]

1860年2月26日安政7年2月5日)、横浜攘夷派によってオランダ人船長W?デ?フォスと、商人N?デッケルが暗殺された(オランダ人船長殺害事件)。外国人達は攘夷派への示威行動の意味もあり、できるだけ盛大に二人の葬儀を行おうとした。この時、殺された二人はフリーメイソンであると言われており、外国人のメイソン達は、儀式用の正装であるエプロン着用で葬儀に臨んだ。これが日本におけるフリーメイソンの最初の記録という(ただし、二人が会員であった証拠は見つかっていない)。二人は横浜の外国人墓地に埋葬され、その墓は現存している[76]

1864年元治元年)、イギリスは居留民保護のため英国第20(イースト?デヴォンシャー)歩兵連隊(後のランカシャー?フュージリアーズ)を香港から横浜に移動させた。同隊の軍隊ロッジ「スフィンクス」は、隊員のためのロッジであるが、在日イギリス人のためのロッジとしても機能し、また恒久的な民間ロッジ設立のための手助けをした。1865年1月、スフィンクス?ロッジは横浜在住のフリーメイソンから家を借り、これをロッジとして日本初の集会を行った。スフィンクス?ロッジは1866年慶応2年)3月に離日したが、改めて民間ロッジとしてイングランド?グランド?ロッジの承認を受け、6月26日、「横浜ロッジ」が恒久的な民間ロッジとして設けられた。このロッジは度々移転しているものの現存しており、日本国内最古の現役ロッジといえる。続いて登場したのが1870年明治3年)発足のロッジ?兵庫?大阪(神戸)である。

英国商人グラバーとフリーメイソンリー[編集]

英国商人グラバー。
アバディーン?ロッジ。

土佐藩坂本龍馬海援隊へ武器を仲介したり薩摩藩士や長州五傑の世話をしたイギリス人武器商人トーマス?ブレーク?グラバーがフリーメイソンだったとする主張もあるが、彼がフリーメイソンだった証拠はない。しかし父のトーマス?ベリー?グラバーが沿岸警備隊の1等航海士だったこと(当時、海軍では出世するためにメイソンに入会することが必須だったと言われている)がグラバー=メイソン説が言われる一因になっている。また彼が12歳の時に移り住んだスコットランドアバディーンはメイソン最古のロッジである「アバディーン?ロッジ」がある場所でもある。また1869年に横浜にオテントウサマ?ロッジNo.1263が設立される[77]が、名前の「オテントウサマ」はグラバーが所有していたオテントウサマ号という船から取ったものである。また長崎にロッジが設立されたのは1885年である。

日本政府による活動制限[編集]

オランダのライデンで入会した西周。
西と同時期にメイソンに入会した津田真道。

日本人のフリーメイソンは、1864年、留学先のオランダで入会した西周津田真道が最初という[78]。しかし、第二次世界大戦以前の日本では、日本人の会員はほとんどいなかった。明治政府は結社の自由?集会の自由を厳しく制限しており、1887年(明治20年)、事前届け出がなく、あるいは警察官の立ち会いのない集会を禁じる保安条例を発令した。直接的には自由民権運動弾圧するものであったが、同法は秘密結社を禁止しており、フリーメイソンリーにとっても保安条例が適用されれば、最低でも集会に警察官の立ち入りを要求されるのは明らかであった。この時期、不平等条約によって外国人は治外法権に置かれていたが、不平等条約が是正されれば、フリーメイソンリーに官憲の手が及ぶのは時間の問題と思われた。

そこで、フリーメイソンで、お雇い外国人として日本政府の通信技術顧問であったW?H?ストーンを代表として、日本政府と協議した。フリーメイソンリーは日本政府と対立する意志はなかったので、ストーンはフリーメイソンリーの非政治?非宗教性を説き、欧米各国で政府に承認?支持されていると強調した。その結果、フリーメイソンリーは保安条例の対象外とする代わり、日本人を入会させないこと、日本社会への接触?宣伝をしないという「紳士協定」を交わしたという。この協定は口頭によるもので、日本側の書類としては発見されていない。ただ、フリーメイソンリー側には、協定遵守を申し合わせた記録が残っているという[79]

保安条例の廃止後も、治安警察法によって結社は届出制内務大臣権限によりいつでも禁止可能)とされ、秘密結社の禁止は続いた。フリーメイソンリーは日本人への働きかけを自粛し、日本人から隔絶した存在であり続けた。戦前にフリーメイソンリーに入会した日本人は、海外のロッジでの入会者に限られていた。しかし、そのために「外国人だけが入会するスパイ団体、「日本人はのけものにされ、入会はおろか見学さえもさせぬ反日?反国体的人種差別団体」という、その意に反した非難にさらされることになった。

日本人の母親を持つ「欧州統合の父」R?クーデンホーフ=カレルギー伯爵(フリーメイソン[80])。彼の国際汎ヨーロッパ連合はナチス政権下のドイツでは禁止され、ナチス党政権下のドイツを逃れる彼を助けた日本人が彼から渡された本[81]鳩山一郎が「友愛」を提唱する契機となった[82]

昭和期、日独伊三国同盟が成立すると、ナチス党政権下のドイツの影響で日本にも「フリーメイソン陰謀論」、「ユダヤ陰謀論」が広まった。既に大正時代、今井時郎樋口艶之助は、フリーメイソンリーの自由主義?民主主義的理念を共産主義の発生源と非難していた。昭和に入ると、陸軍中将四王天延孝は、ナチス党の影響を否定しつつ、ユダヤ?フリーメイソン陰謀論を流布した。四王天は、『シオン賢者の議定書』という偽の文書を陰謀の物証とした。1943年毎日新聞社主催、情報局が後援をし、銀座の松屋で「米英を操る黒幕の正体をえぐり出し、国際謀略の思想に構えんとす」というキャッチコピーの下、「国際秘密力とフリーメーソンリー展」という催しが行われた。

1941年(昭和16年)、日本がイギリスやアメリカ、オランダオーストラリア宣戦布告すると(大東亜戦争)、ロッジはことごとく憲兵?特別高等警察によって閉鎖に追い込まれ、書類?備品は全て押収された。

原子爆弾投下とフリーメイソンリー[編集]

Atombombe Little Boy 2.jpg
1945年8月6日?9日の広島?長崎に投下された原子爆弾、「リトルボーイ」(上)と「ファットマン」(下)。
1945年8月6日?9日の広島?長崎に投下された原子爆弾、「リトルボーイ」(上)と「ファットマン」(下)。

第二次世界大戦中の米国においても米軍最高司令官たる米大統領以下、フリーメイソンの政治家が多かった。連合国側の原子爆弾開発「マンハッタン計画」を推進したフランクリン?ルーズベルト第32代大統領と、日本への原爆投下時の第33代大統領ハリー?S?トルーマンはフリーメイソンであった。日本への原爆投下を計画?実施したカーチス?ルメイ少将(東京大空襲指揮官)はフリーメイソンであり、1944年7月7日にオハイオ「レイクウッド?ロッジNo.601」(Lakewood Lodge)にてフリーメイソンの階級を第3階級マスターメイソンに昇級した[65]フィリピンの戦いに従軍の指揮官であったダグラス?マッカーサー元帥(戦後日本の連合国軍最高司令官)もまたフリーメイソンであったが[83]、彼は原爆投下の必要性に同意しなかった朝鮮戦争では原爆投下を立案した)。政治的イデオロギーでは、F?ルーズベルトとトルーマンは民主党出身の大統領、マッカーサーは共和党等が擁立した大統領候補者であった。大多数の米国民は原爆投下の倫理上の葛藤を抱えながら日本国民への心配を目に見える態度で表すことはほとんどなく、その問題からは目を背け、原子力エネルギーの将来というものに注目していたようであったが、原爆投下後に米国で称賛の声もあまり聞かれず、米国民の大多数はまた原子力エネルギーがもたらす放射線被曝の問題を分かっていなかった[84]

1945年日本への投下実行までの歳月においてフリーメイソンリーと原子爆弾の間に特に相関があるわけではなかった。フリーメイソンリーのあらゆる時代において多くの平和主義者もまたフリーメイソンであった。例えば反軍的な『出兵の祈り(戦争の祈り)』を著したマーク?トウェイン[85]。啓蒙時代のヨーロッパ思想家の中で、フリーメイソン且つ平和主義者は顕著に多かった(例えばヴォルテール)。

国際連合旗。
国際連合旗。
「国際連合の父」コーデル?ハル米国務長官(前列中央)。1941年12月7日日米交渉にて。
「国際連合の父」コーデル?ハル米国務長官(前列中央)。1941年12月7日日米交渉にて。

平和主義からなる欧州統合構想「パン?ヨーロッパ」を1920年代から提唱していたフリーメイソンのリヒャルト?ニコラウス?栄次郎?クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、平和のために利用される前人未踏のエネルギー源が人類の生活を豊かにすることを思い描き(クーデンホーフ=カレルギーの技術論)、ナチス?ドイツ指導者アドルフ?ヒトラーに対して言論で戦った(クーデンホーフ=カレルギーとヒトラー)。トルーマン大統領は戦中に米国に亡命したクーデンホーフ=カレルギー伯爵による欧州統合構想を支持した[86][87]。トルーマン大統領はとりわけ亡命中のクーデンホーフ=カレルギー伯爵による1945年12月発表の欧州統合構想の記事に感銘を受け、この記事は米国の「公式政策」として採用された[86]。また第二次大戦下の平和主義者は、「国際連合の父」コーデル?ハルである。ハルは、第二次大戦中に国際連合(国連; UN)設立のために重要な役割を果たし、その功績により1945年にノーベル平和賞を受賞した[88]。ハルはフリーメイソンであった[89]

当時の反フリーメイソンリーと原子爆弾開発

ナチ党政権期のドイツと同様に激しく反フリーメイソンリーで、フリーメイソンを絶やそうとしたソ連(ヤルタ会談で対日参戦決定)は積極的に原子爆弾を開発していた。メイソンリーを制限していた戦中の日本もまた原爆開発に着手していた(日本の原子爆弾開発)。

第二次世界大戦後のロッジ再建[編集]

フリーメイソンのダグラス?マッカーサーと、旧友の吉田茂。吉田はフリーメイソンであると言われている[90]。それだけで吉田がメイソンではないとは言えないが、吉田について記述している(グラバーについても記述している)山石太郎の『楽園を創るフリーメーソン物語』は一部またはそれ以上が虚構である[91]
R?クーデンホーフ=カレルギー伯爵の影響を受け「友愛」を提唱したマスターメイソン鳩山一郎。鳩山はRCK伯爵の反全体主義の人道主義的著書『自由と人生』の翻訳者であり、本書の友愛精神の継承者である。
R?クーデンホーフ=カレルギー伯爵の影響を受け「友愛」を提唱したマスターメイソン鳩山一郎。鳩山はRCK伯爵の反全体主義の人道主義的著書『自由と人生』の翻訳者であり、本書の友愛精神の継承者である。

1945年、日本の敗戦で第二次世界大戦が終わると、1946年よりロッジの再建が始まった。そして、1950年1月5日佐藤尚武(外交官?政治家)、植原悦二郎(政治家)、三島通陽(作家?政治家)、高橋龍太郎(実業家?政治家)、芝均平(ジャーナリスト、元ジャパンタイムズ編集局長)らが、初めての日本における日本人会員となった[92]。この時点で日本のロッジはフィリピン?グランド?ロッジの傘下にあり、フィリピンの対日感情は最悪だった。4月8日フィリピン代表のマウロ?バラディが来日し、「世界平和のために、日本人を兄弟として握手しようと決心し、過去の罪を許してメイソンとして迎えるべく決意した」と演説した。星島二郎はこれに応え、国会にフィリピンに対する謝罪決議を提出し、全会一致で可決させたという[93]。1950年は国会議員5人他、合計7人の日本人が入会した[31]

自身も会員であったダグラス?マッカーサーは、対日政策の一環として、皇族を皮切りに日本の指導者層を入会させ、最後は昭和天皇を入会させる腹づもりであったという(フリーメイソンリーは直接的な勧誘はしないことになっているので、それとなく興味を持たせるようにした)。フリーメイソンリーは、米国にとっては冷戦下の反共の砦としても期待されていた[94]。昭和天皇の入会は実現しなかったが、はるか後年の1995年にも、リチャード?クライプ元グランド?マスターが取材に「日本でも天皇陛下がメンバーだったら、偏見がなくなり、もっともっと簡単にメンバーを集めることができるでしょう。もし、天皇陛下に入っていただければ、私は名誉グランド?マスターにしてさしあげたい(笑)。」[95]と答えており、現在でも天皇の入会を期待しているものと思われる。

1951年に入会した鳩山一郎[96]、入会時の第1階級(エンタード?アプレンティス)を経て[67]1955年に第2階級(フェロークラフト)へ進級[67][97]、さらに第3階級(マスターメイソン)に昇級した[67][98]。彼のマスターメイソン昇級は1955年当時に報道されている[99]。一郎がメイソンリーに入会した理由は、一郎に思想的影響を与えたクーデンホーフ=カレルギー伯爵がメイソンであったからである[100]

スコティッシュ?ライト第32階級のメイソン高崎廣によれば日本でもフリーメイソンの影響がみられるようである[101]日本国憲法第21条集会の自由結社の自由言論の自由とフリーメイソンの理想が並んでいる[34]とする考えもある。フランス革命自由、平等、友愛(自由、平等、博愛)の3つの用語もフリーメイソンの基本的理念である[14]

1957年には会員数が2500人を超え、独立したグランド?ロッジを構えるべきという気運が高まり、3月に東京グランド?ロッジを設立した。初代グランド?マスターは、ベネズエラ外交官カルロス?ロドリゲス=ヒメネスであった[102]。また、主に米軍基地内にフィリピン系ロッジ、黒人系ロッジが別途存在する。これらは日本Grand Lodgeとの直接的な関わりはなく、各ロッジは個別のGrand Lodgeに属している。

 

組織[編集]

ロンドンのグレート?クイーン?ロードにある「フリーメイソンズ?ホール」。1933年に竣工し、イングランドのグランド?ロッジが入っている。また一般向けの博物館も併設している。

活動内容[編集]

フリーメイソン日本グランド?ロッジの公式ホームページによれば、「会員相互の特性と人格の向上をはかり、よき人々をさらに良くしようとする団体」であるとされているが、具体的な活動内容は非公開である。対外的には学校設営や、慈善団体への資金援助などのチャリティ活動を行っており、日本では5月に子ども祭り、8月にバーベキューが催され、これには会員以外の一般人も参加可能であるという。その他行事として「昼食会」「野外活動」「遠足」「チャリティ?コンサート」などがある[103]。社会福祉として孤児院、ホームレス、レイプ被害者、眼球バンク、火傷した子供、盲導犬等に関わる活動を支援している[69]

会員同士の親睦を深め合うことも活動の一環であり、集会後の食事会も正式な活動である。初期のロッジは、レストランパブ居酒屋宿泊施設が多かった。

特徴[編集]

フリーメイソン特有の握手。フリーメイソンは口外してはいけない秘密の握手がある[104]。秘密の握手は種類がいくつかある[105]

フリーメイソンリーは、原則として国や州を単位とする、グランド?ロッジGrand Lodge(英語版))と呼ばれる本部があるものの、全体を統制する総本部はない。ただし、最初にグランド?ロッジの成立した、イングランドのグランド?ロッジによる認証が本流であるとする認識から、これを「正規派」「正統派」と称し、同グランド?ロッジが認証しないロッジは非正規な存在と見なされることが多い。以下の「#会員数」「#入会条件」も、正規派とされるフリーメイソンリーの例である。

グランド?ロッジはプロビンシャル?グランド?ロッジ(Provincial Grand Lodge)やディストリクトグランドロッジ(District Grand Lodge)と呼ばれる県?地域支部、および直轄に管理されるロッジで構成され、県?地域支部はロッジと呼ばれる支部から構成される。ただし、活動規模の小さい国や地域では、グランドロッジは県?地域支部を置かず、ロッジを直接管理している場合もある。日本においては一般財団法人日本メイスン財団(公益法人制度改革に伴い、厚生労働省所管の公益法人であった財団法人「東京メソニック協会」から2012年4月1日改組)と任意団体「日本グランド?ロッジ」傘下のロッジ群の2形態で構成され、日本メイスン財団所有の建物に日本グランド?ロッジが入居し、各ロッジの福祉関連事業は財団の事業予算で支援されている。また、イングランド系、スコットランド系、フィリピン系、アメリカ?マサチューセッツ州の系統、アメリカ?ワシントン州のプリンス?ホール系(黒人系)ロッジが日本グランド?ロッジとは別系統で存在する。それらの殆どは在日米軍基地内にある軍事ロッジ(軍人により設営されるロッジ)である。

ロッジは他のロッジから認証されることで、フリーメイソンのネットワークに加入できる。あるロッジの振る舞いがフリーメイソンリーとして不適切であった場合、他のロッジはそのロッジへの認証を取り消すことで排除する。正式名称が Free and Accepted(承認された) Masons であるのはそのためである。

会員は"Brother"(兄弟)と互いに呼びあう。会員は秘密の符牒(ふちょう)や握手法で「兄弟」かどうかを見分け、「兄弟」はいざという時は助け合うことになっている。欧米には有力者の会員も多いため、さまざまな場面で有利に働くことがあるという(人脈が出来る)。ただし、ロッジには外の問題を持ち込まない決まりになっているとされる。また、符牒や握手法は秘密の建前ながら、現実には暴露本などで有名になりすぎたため、欧米ではむやみに使いたがる非会員も少なからず存在する。そのため、実際に会員を見分ける必要がある時は会員証を提示させるか、それができない状況ならば、さらに込み入った質問(test question、検分質問)を行っているという[106]

また、ヨーロッパのフリーメイソンには準会員に相当する存在として、"serving brother"(奉仕する兄弟)が設けられている。これは、初期にレストランなどを利用してロッジの会合を開いていたことに端を発する。店主や給仕などにも守秘義務を課す必要があったため、必要最小限の参入儀礼を執り行い、準会員相当の資格を与えた上で、実務的な内容の誓約を取り交わすことにしたのである。専用のロッジが一般的になると、今度は門外門衛(門番)に有給で「奉仕する兄弟」を雇用する事例が増えた。門外門衛は職務上儀式に参加できないため不人気であり、会員のみでは人手不足になりがちだからである。また、貴族を会員に迎え入れた場合、その従者を徒弟か、あるいは「奉仕する兄弟」にしたり、軍事ロッジで雑務を行う下級兵士を「奉仕する兄弟」にした例もある。アメリカでは準会員の制度は無いが、施設の維持管理などは、信頼の置ける非会員を有給で雇う例が少なくない[107]

会員数[編集]

会員数については上述したが、非公開的な結社である為、異説もあり、日本グランド?ロッジによれば、世界に上述の半数の約300万人とされている。また、2011年に『ウォール?ストリート?ジャーナル』が報じたところによると、2000年代半ばに200万人を切り、現在は140万人になっている[104]。『朝日新聞』に明らかにしたところによれば、日本での会員数は約2000人で、多くは在日米軍関係者。日本人は300人程度という[10]。その為海外からの日本グランド?ロッジに対する認識はいわゆる「軍事ロッジ(または「ミリタリー?ロッジ」)」であるという。日本人における会員第一号は、西周(にし あまね)。米軍関係者は国外への異動も多くその実数は変動する。また、日本国内には、フィリピン系ライジングサン、黒人系プリンスホール等のロッジ、及び会員も別途存在する為、正確な会員数は不明。日本のロッジでは英語と日本語、またはそのいずれか一方が使用されている[108]

入会条件[編集]

1800年頃の入会儀式の一部。

入会資格として何らかの真摯(しんし)な信仰を要求しており、ユダヤ教キリスト教イスラム教(以上アブラハムの宗教)の信徒はもちろん、仏教[109]などであっても入会できる。無神論者は入会できない(例えば日本のあるロッジではそのようである[33]。しかしながらメキシコの大統領プルタルコ?エリアス?カリェスのように無神論者で共産主義者のフリーメイソン[65]もいるようである。#フランス大東社とフランスでの動向も参照。)。たとえ信仰する宗教があったとしても、社会的地位の確立していない宗教(例として新宗教各派)である場合は入会できない。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入会資格はある[33]。これらの信仰を総称して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼ぶ。

マスターメイソンの子息のための"Loweton"の儀式。

そのほかの入会資格として、成年男子[33]、世間での評判が良く、高い道徳的品性の持ち主であり、健全な心に恵まれ、定職と一定の収入があり[33]、家族がいるならばきちんと養っていること[33](独身者も入会できる[110])、身体障害者でないことが求められる。ただし、二度の世界大戦で傷痍軍人が激増し、社会活動する身体障害者は珍しくなくなった。そのため、現在は身体障害者排除の規定は廃止されていないが、ロッジの裁量で入会を認めることができるようになっている[111]国立ロッジNo. 3の入会条件からも、各国?各ロッジごとに差異があることが伺われる[33]

ロッジ会員の投票で全会一致の承認を得た上で、さらに身辺調査を行い最終的に決定する。また、入会時には4万円から6万円程度の一時金が必要である。この他、年会費として6千円前後。アメリカでは、入会金450ドル、年会費300ドル[104]。そしていざ入会する際には儀式の暗記と宣誓の暗唱が求められる。そのため事前にコーチが付いてレクチャーも行われる(なお、階級昇進においても儀式の暗記と宣誓の暗唱が求められる)。入会を拒否された場合でも、一定期間を置いて再申請は可能。 儀式の中にはソロモン神殿の築家棟梁ヒラム?アビフの伝承等をメイソンの理念に絡めた演劇を行うものが存在する。

日本グランド?ロッジでは、月に1度無料説明会を行っている[112]。1970年代には会員数が5000人規模[31]に達したが、その後減り続け、2000人規模まで落ち込んだ。2006年、『ダ?ヴィンチ?コード』が映画化され、これを観た入会志望者が増加。無料説明会を開くようになった。しかし、2008年に広報担当の渡辺一弘北村安忠が朝日新聞の取材に応じた際の渡辺の説明によると、「人脈作りを期待したり、秘密結社という想像を膨らませたりして入って、期待と違うとやめていく人が多い」ということであった[10]

アメリカでは、会員数減少に歯止めを掛けるため、説明会の広告を出し、集団儀式を主催して数百人単位での新規入会を行うようになった。しかし、クリストファー?ホダップによると、「高齢団員による絶望的なグループ」、「請求書の支払いやまずい食事、誰がユニフォームにアイロンをかけるか、といったことに関する長時間の会議」などを目の当たりにして、新人の多くは2度と姿を見せなかった。ただし、こうした努力の結果、会員数減少に歯止めは掛かっているという[104]

また、メイソンの食事会?集会?ロッジにおける政治活動も禁じられており、宗教や政治問題を持ち込んではならないとしている(中立性を保つこと、差別の排除、全人類の兄弟愛の実現等のため)[33]

自分が会員であることを隠す必要はなく、会員であることを公言している人もいる。ただし、自分以外の会員について、その者が存命中に会員であることを公表することは禁じられている。入会勧誘は内規で禁じており、公募はしていない(実際には、前出のように無料説明会も開いているのだが、直接の勧誘はしない建前)。入会には2人の推薦者(保証人)が必要とされる。推薦者となる2人のフリーメイソンの友人?知人がいない者は、ロッジを訪問し、多くの会員たちと交流する中で推薦人を見つけることもできるようである[33]。入会の前に多数のメイソンリー会員と知り合うことは重要なことのようである[113]

外部の取材については、かつては厳しく制限していたが、近年は「フリーメイソンズ?ホール」に「The Library and Museum of Freemasonry」を併設して、蔵書を閲覧できるようにしたり所蔵品を紹介するツアーを実施している。また定期的にグランドマスターの就任式を公開したり、テレビカメラの前で会員が儀式劇を再現するなど少しずつ情報公開に方向転換している[95][104]。ちなみに、日本グランド?ロッジの儀式見学を許された初めての取材者は赤間剛である[114]。これはあくまで外部取材についての話で、ジャーナリストの会員はこれ以前から少なからず存在する。

女性は入会することができないが、外郭団体として第3階級マスター?メイソン(親方。#階級参照)の妻、母、姉妹だけが入会できるイースタン?スター(東方の星の結社)(The International Order of Easten Star)が存在する。こうした外郭団体は、女性を対象とするものでも会員(もちろん男性)がお目付役兼サポーターとして付けられている[115]。また、一部のロッジでは、女性のフリーメイソンリー会員を認めているところもあるが(例えばGrande Loge féminine de FranceGrande Loge mixte de France)、多くのロッジでは伝統などを理由にこれを認めておらず、排除している。ちなみに女性会員の場合でも呼び方は「シスター」ではなく「ブラザー」である。

子供から入会できる外郭団体としては、男子はディモレー結社(デモレー)、女子は国際ヨブの娘たち少女のための虹の国際結社(虹の少女たち)などがあり、ボーイスカウトガールスカウトに類似する活動を行っている。ディモレー結社や虹の少女たちは、親が非会員でも入会できる[116]

日本のロッジ[編集]

日本グランドロッジ管轄のロッジ一覧[編集]

東京タワー手前左下にある屋上が緑色の地上12階建ての建物はメソニック38MTビル、その手前にある同じく地上12階建ての建物がメソニック39MTビル。日本グランドロッジ、他4つのロッジ、またさらに日本メイスン財団(旧?東京メソニック協会)の住所となっている[117][118][119]低層の東京メソニックビルディング(東京メソニックセンター)はメソニック38MTビルとメソニック39MTビル左の街路樹の所にある。

現在、日本グランド?ロッジがある「東京メソニックビル」(masonic=メイソンの)は、戦前は日本海軍士官の親睦団体である水交社海軍省外郭団体)の本部ビルであった。しかし終戦後のGHQの解散命令により水交社は解散し、本部は空きビルとなり、その空きビルを米軍関係者がサロンとして使用し始めた。そこからフリーメイソンのロッジとして使用されるようになり、会員であるマッカーサーの尽力などにより、このビルに日本グランド?ロッジが創設された。後に復活した水交社から返還を要求する訴訟が起こされたが和解が成立し現在に至っている。現在は建て替えられたが、一室には水交社の応接室が再現されている。ちなみにこのビルは東京タワーの側にあることでも有名であり、それにまつわる陰謀論も存在する。また、東京メソニック協会はこの周辺にいくつかのビルを所有している。日本グランドロッジは世間において時として「フリーメイソン日本支部」「フリーメイソン日本本部」等の表現が用いられている。

メソニック38MTビル(1981年7月竣工)とメソニック39MTビル(1983年4月竣工)は森トラストのオフィス物件であり[120][121]、日本メイスン財団のウェブサイトにメソニックMTビルが沿革として紹介されている[122]。メソニック38MTビルにはかつてイトーヨーカ堂グループ本社や富士通エフサスが入っていた。メソニック39MTビルにはウォルト?ディズニー?テレビジョン?インターナショナル?ジャパンが入り、ビル下層階の窓に「Disney channel」のロゴやミッキーマウスが描かれている(ウォルト?ディズニーデモレーインターナショナル DeMolay International のメンバーであったもののメイソンではなかったようである[123])。

東京都国立市のスクエア?アンド?コンパス?ロッジ(国立ロッジ)No.3の所在地はJR国立駅の南にある「国立メソニックセンター」(Kunitachi Masonic Center)である。当該ロッジ内部では「フリーメイスン国立支部」とも呼称されているようである[124]

京都では2012年に[125]新たなロッジ「京都御門ロッジNo.23」(Kyoto Mikado Lodge No.23)が開設される以前には、京都市東山区夷町(えびすちょう)三条通沿道に日本グランドロッジ管轄の「京都メソニック?ロッジNo. 5」(Kyoto Masonic Lodge No.5)がある[126][127][128]。京都メソニック?ロッジNo.5は2011年の日本グランドロッジ管轄ロッジのリストから除外されている[129]

マスターメイソンになると日本国内でも外郭団体スコティッシュ?ライトに参加できる[33]


下表は2013年現在の現行のロッジの一覧。

日本グランドロッジ管轄のロッジ一覧[130][129]
場所 名称 ロッジNo. (#) ウェブサイト
青森県三沢市 青森ロッジ
Aomori Lodge
10 http://aomori10-freemasons.org (旧サイトのアーカイブ)
東京都港区 日本グランド?ロッジ
Grand Lodge of Japan
  http://www.grandlodgeofjapan.org
東京都港区 東京メソニック?ロッジ
Tokyo Masonic Lodge
2  
東京都港区 東京友愛ロッジ
Tokyo Yuai Lodge
11  
東京都港区 デモレーランド?ロッジ
DeMolay-Land Lodge
22  
東京都港区 日本リサーチ?ロッジ
Research Lodge of Japan
   
東京都国立市 スクエア?アンド?コンパス?ロッジ (国立ロッジ)
Square and Compass Lodge (Kunitachi Lodge)
3 http://number-3.net/jp/index.html
東京都福生市 国際ロッジ
Kokusai Lodge
15 http://www.kokusailodge.yolasite.com
神奈川県横浜市 ファーイースト?ロッジ
Far East Lodge
1 http://www2.gol.com/users/lodge1/index-j.html
神奈川県横須賀市 横須賀ロッジ
Yokosuka Lodge
20 http://www.yokosukalodge20.com
神奈川県相模原市 相模原メソニック?ロッジ
Sagamihara Masonic Lodge
13  
愛知県名古屋市 鳥居メソニック?ロッジ
Torii Masonic Lodge
6  
京都府 京都御門ロッジ
Kyoto Mikado Lodge
23 http://kyotomikado.minibird.jp/index.html
山口県岩国市 錦帯ロッジ
Kintai Lodge
16 http://iwakunimastermason.com
福岡県 卑弥呼ロッジ
Himiko Lodge
24 http://himikolodge24.webs.com
長崎県佐世保市 日本ロッジ
Nippon Lodge
9 http://nipponlodge9.synthasite.com
沖縄県中頭郡 帝国ロッジ
Teikoku Lodge
19 http://www.teikoku19.com

その他の管轄ロッジ一覧[編集]

日本グランドロッジ以外のグランドロッジの管轄で2013年現在の現行のロッジの一覧。


日本で女性?男性の混成ロッジは、2008年にフランス系の国際的な女性?男性混成のフリーメイソンリー団体「人権」(Le Droit Humain International; ル?ドロワ?ユマン?アンターナショナル)の支援により東京に設立されたロッジ「日の出」(Soleil Levant; ソレイユ?ルヴァン)である。

その他の管轄ロッジ一覧[131]
管轄グランドロッジ 場所 名称 ロッジNo. (#) ウェブサイト
フィリピン
Grand Lodge of the Philippines
神奈川県キャンプ座間 ライジングサン?ロッジ
Rising Sun Lodge
151 http://www.risingsunlodge151.com/1.html
沖縄県中頭郡 沖縄ロッジ
Okinawa Lodge
118  
イングランド
United Grand Lodge of England (UGLE)
兵庫県神戸市 ライジングサン?ロッジ
Rising Sun Lodge
1401  
スコットランド
Grand Lodge of Scotland
神奈川県横浜市 ロッジ?スター?イン?ザ?イースト
Lodge Star in the East
640 http://www2.gol.com/users/lodge640
兵庫県神戸市 ロッジ兵庫アンド大阪
Lodge Hiogo and Osaka
498 http://www.skirret.com/kobe/hiogo
マサチューセッツ
Grand Lodge of Massachusetts
東京都港区 シニム?ロッジ
Sinim Lodge
   
プリンスホール?ワシントン? アンド?ジュリスディクション ディストリクトNo. 6[132]
Prince Hall Washington and Jurisdiction District No. 6
青森県三沢飛行場 オミサワ?ロッジ
O'Misawa Lodge
54 http://omisawa54.org
東京都横田飛行場 チェリーブラッサム?ロッジ
Cherry Blossom Lodge
42  
神奈川県キャンプ座間 プライド?オブ?ジ?オリエント?ロッジ
Pride of the Orient Lodge
55 http://prideoftheorientlodge55.webs.com
神奈川県横須賀海軍施設 リベレーション?ロッジ
Revelation Lodge
97  
神奈川県厚木海軍飛行場 トーション?ロッジ
Touchon Lodge
106  
山口県岩国飛行場 ジェネシス?ロッジ
Genesis Lodge
89 http://genesislodge89.org
長崎県佐世保[133] 友達ロッジ(準備中)
Tomodachi Lodge
   
人権インターナショナル
Droit Humain International (DHI)
東京都 ソレイユ?ルヴァン
Soleil Levant
  http://fm-fr.jp
グラン?オリアン?アラベ?エキュメニック[134]
Grand Orient Arabe Œcuménique (GOAO)
岐阜県岐阜市[135][136] ロゲ?ラ?ルミエール?ドゥ?ソレイユ?ルヴァン
Loge La Lumière du Soleil Levant (Respectable Loge de Recherche)
   

日本グランドロッジの歴代グランドマスター[編集]

日本グランドロッジの歴代グランドマスター(Past Grand Masters; PGM)の一覧。

  • 1957年: Carlos Rodriguez-Jimenez[30][137]カルロス?ロドリゲス=ヒメネス): ベネズエラの外交官。
  • 1958年: Carlos Rodriguez-Jimenez[30][137](カルロス?ロドリゲス=ヒメネス)
  • 1959年: Horiuchi, Sadaichi[30][137]堀内貞一、ホリウチ サダイチ)
  • 1960年: Togasaki, Kiyoshi[30][137]東ヶ崎潔、トガサキ キヨシ)
  • 1961年: Carl T. Nakamura[30][137](カール?T?ナカムラ)
  • 1962年: Nohea O. A. Peck[30][137](ノヘア?O?A?ペック)
  • 1963年: George B. Morgulis[30][137](ジョージ?B?モーギュリス)
  • 1964年: George H. Booth[30][137](ジョージ?H?ブース)
  • 1965年: Saburo L. Kitamura[30][137](サブロウ?L?キタムラ)
  • 1966年: Norman Cohen[30][137](ノーマン?コーエン)
  • 1967年: Matsumoto, Masaji[30][137](マツモト マサジ)
  • 1968年: Chester O. Neilsen[30][137](チェスター?O?ニールセン)
  • 1969年: Floyd J. Robertson[30][137](フロイド?J?ロバートソン)
  • 1970年: Yamada, Yoshio[30][137](ヤマダ ヨシオ)
  • 1971年: Floren L. Quick[30][137](フローレン?L?クイック)
  • 1972年: Frederick S. Kashiwagi[30][137](フレデリック?S?カシワギ)
  • 1973年: Charles P. Weatherman[30][137](チャールズ?P?ウェザーマン)
  • 1974年: Yamada, Tsune[30][137](ヤマダ ツネ)
  • 1975年: Leo N. Parlavecchio[30][137](レオ?N?パーラヴェッキオ)
  • 1976年: Nishiyama, Shigeru[30][137](ニシヤマ シゲル)
  • 1977年: Roy Baker[30][137](ロイ?ベイカー)
  • 1978年: Ronald E. Napier[30][137](ロナルド?ネピア)
  • 1979年: Howard M. Voss, Jr.[30][137](ハワード?M?ヴォスJr.)
  • 1980年: Kitamura, Yasutada[30][137](北村安忠、キタムラ ヤスタダ)
  • 1981年: Takano, Kiyoshi[30][137](タカノ キヨシ)
  • 1982年: Ohnishi, Hayao[30][137](オオニシ ハヤオ)
  • 1983年: James L. Johnston[30][137][138][139][140][141](ジェームズ?L?ジョンストン)
  • 1984年: Paul E. Newman[30][137](ポール?E?ニューマン)
  • 1985年: Carl L. Potts[30][137](カール?N?ポッツ)
  • 1986年: Chester L. Ditto[30][137](チェスター?L?ディット)
  • 1987年: Chester L. Ditto[30][137](チェスター?L?ディット)
  • 1988年: Fujino, Toshio[30][137](フジノ トシオ)
  • 1989年: Kobayashi, Hideo[30][137](コバヤシ ヒデオ)
  • 1990年: Washizu, Yoshio[30][137][142](ワシズ ヨシオ)
  • 1991年: Kobayashi, Hideo[30][137](コバヤシ ヒデオ)
  • 1992年: Richard A. Cripe, Jr.[30][137]リチャード?A?クライプJr.): 別冊宝島233『陰謀がいっぱい!』(宝島社、1995年)の取材に応じた。
  • 1993年: R. David Pogue, Sr.[30][137](R?デイヴィッド?ポーグSr.)
  • 1994年: Allen L. Robinson[30][137](アレン?L?ロビンソン)
  • 1995年: Yamaya, Akira[30][137]山屋明、ヤマヤ アキラ): 『日本のフリーメイスン』(あさま童風社、1996年4月)の著者。
  • 1996年: William D. Patterson[30][137](ウィリアム?D?パターソン)
  • 1997年: Iwahama, Kazutoshi[30][137](イワハマ カズトシ): 2006年11月11日にメイソンリーから追放された[137]
  • 1998年: William M. Heath[30][137](ウィリアム?M?ヒース)
  • 1999年: Frederic R. Collins[30][137](フレデリック?R?コリンズ)
  • 2000年: Watanabe, Kazuhiro[30][137](渡辺一弘、ワタナベ カズヒロ)
  • 2001年: Inae, Eiichi[30][137](イナエ エイイチ)
  • 2002年: Philip A. Ambrose[30][137]フィリップ?A?アンブローズ): 2011年に朝日新聞による日本グランドロッジの取材に応じた[31]
  • 2003年: Jack C. Miller[30][137](ジャック?C?ミラー)
  • 2004年: Katagiri, Saburo[30][137][143]片桐三郎、カタギリ サブロウ): 『入門 フリーメイスン全史――偏見と真実――』(アムアソシエイツ、2006年11月)の著者。
  • 2005年: Robert D. Target[30][137](ロバート?D?ターゲット)
  • 2006年: Ishii, Mitsuru[30][137](イシイ ミツル)
  • 2007年: Joedie J. Poole[30][137](ジョディ?J?ポール)
  • 2008年: Michael D. Setzer[30][137](マイケル?D?セッツァー)
  • 2009年: Robert H. Koole[30][137](ロバート?H?クール)
  • 2010年: Washikita, Akira[30](ワシキタ アキラ)
  • 2011年: Donald K. Smith[29][30](ドナルド?K?スミス)
  • 2012年: Mabuchi, Kazufumi[144](マブチ カズフミ)
  • 2013年: Shimokawa, Yoshiharu[145](シモカワ ヨシハル)
 

「非正規」なロッジについて[編集]

イングランドのロッジが認証していない「非正規」ロッジと、フリーメイソン以外の秘密結社の区別は、しばしばあいまいである。

フランス大東社とフランスでの動向[編集]

双頭の鷲。「フランス大東社におけるスコティッシュ?ライトの最高評議会の第33階級と最終階級の最も偉大な監察官」の装飾品。
フランス共和国政府の公式ロゴ。フランス大東社はフランス共和国の原則として最大に具現化されている「自由、平等、友愛」(Liberté, Égalité, Fraternité)の原則を大切に守っている[146]

「非正規」派のグランド?ロッジとして有力なのは、フランスの「フランス大東社」(GODF)である。ただし、当初は英米系と相互承認関係にあった。同ロッジは従来のフランス?グランド?ロッジから独立した勢力を統合し、1773年10月22日発足した。仏大東社は、英米系のロッジと違い、組織として政治活動に加わる者も少なくなかった(フランス革命では、フリーメイソン思想のかかわりが指摘される反面、関係者が多数処刑されている。また、ロッジとしてはむしろアンシャン?レジームの立場で、革命は彼等の予想外の出来事だったとする研究もある[147]。従って、政治活動に加わっていても、組織だって革命に与したかどうかは議論がある)。

フランスでフリーメイソンリーが政治的影響を強めるのは19世紀後半、第三共和制期に入ってからである。政治活動を禁じた「正規派」と異なり、仏大東社は圧力団体としても機能した。

1877年9月13日、仏大東社は憲章を改訂して「至高の存在への尊崇と信仰」の義務規定を撤廃し、「良心の自由と人間性の確立」を新たな基本理念と定めた。これを基本理念の逸脱と見なした英系ロッジは、仏大東社の認証を取り消した。ただし、「正規派」メイソンの片桐三郎によれば、1867年、仏大東社がアメリカ?ルイジアナ州に設立したスコティッシュ?ライト評議会(上位階級授与のための組織、後述)が、同州のグランド?ロッジに管轄権を要求したため、米国系ロッジはこれを不服とするルイジアナ州のグランド?ロッジの要請に基づき、仏大東社の認証を取り消した事件があった。片桐によれば、英米系との対立はこの事件がきっかけであり、憲章改訂はだめ押しに過ぎなかったとしている[148]。その結果、仏大東社は「無神論者」のレッテルを貼られたが、これは信仰の自由?信仰しない自由を共に認めたものであり、信仰そのものの否定ではない。さらに、その後共産主義者の入会も認め、Arthur Groussierフレッド?ツェラーなどグランドマスターになった者もいる。

また、フランスのロッジに女性会員(仏大東社自体は認めていない[149])やアフリカ系黒人系)会員を認めたことも、「正規派」による非難の理由とされた。すなわち、当時の「正規派」が人種差別思想を多分に持っていたことを意味する。

現在でも、フランスでは仏大東社系のフリーメイソンリーが最大勢力である[150]。政治的には、19世紀末から20世紀初めに、カトリックとの対立の所産でもある政教分離推進に強い影響力を持った。そのため、1904年にはフランスはローマ教皇庁との国交断絶に至った(現在は国交回復)。その後影響力を低下させたが、1936年の総選挙で人民戦線が勝利した背景にも、仏大東社の仲介があったという。戦後も、民族自決の立場からフランス植民地だったアルジェリア独立を支持するなど、仏大東社は政治的発言を行っている(特定の支持政党はないが、おおむね社会党に近いとされる)。

仏大東社は、ベルギー大東社などとCLIPSAS英語版を設立している。「正規派」に比べて少数ではあるが、欧州や中南米を中心に約8万人がこれに属しているという。なお、「大東社」を名乗

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