《中国の屏風》(On a Chinese Screen)(5)-荷役の獣- 日本語

  イギリスの作家、ウィリアム・サマセット・モーム(1874-1965)は私の最も好きな作家の一人である。
  彼は1919年に世界大旅行をして、アメリカ、ハワイ、南太平洋サモア島、マレー半島、中国、ジャヴァなどに立ち寄っている。翌1920年秋に、再び東洋を旅行して、マレー半島、仏領インドシナ、そして二回目の中国訪問を行った。その時の体験が『中国の屏風』にまとめられ、1922年に刊行された。
その中の一篇、『荷役の獣』を紹介しよう。これは5月27日に紹介した『天の祭壇』に続いて2番目に私が好きな作品である。

『荷役の獣』

    最初に荷物を运んでいるクーリーを道端で見かけると、楽しい光景として目に映るものだ。着ている青のぼろ服は、藍、トルコ玉のような青緑色、さらに薄い雲のたなびく青白い空の色と、さまざまな色をしていて、風景によく似合ってる。水田の間の狭い道をとぼとぼ歩いたり、緑の丘を登ったりしている姿は、実にさまになっているように思える。着ているものは短い上着とズボンだけ。上下の服装も最初は揃っていたのだろうが、つぎを当てる時には同じ色を選ぼうとはしない。手当たり次第の布でつぎを当てるのだ。日光と雨から頭を守るために、西洋の街灯消灯器のような形の、途方もなく平たい藁帽子をかぶっている。
    一人一人が両端に大きな荷物をぶら下げた天びん棒を肩に担いだクーリーの列を見ると、美しい模様になっている。水田にその急いで通り過ぎる姿が映っているのを眺めると面白い。通りすがりに彼らの顔を見ると、もし東洋人は外見だけでははかり知れぬと教え込まれていなかったら、人の好さそうな、素直な顔だと思っただろう。道端のお宮の菩提樹の蔭に荷物を置いて寝転がって休み、煙草を吸ったり陽気におしゃべりしているのを見た時、一日に五十キロメートル近くも运んでいる荷物を、ちょっと持ち上げてみようとすれば、彼らの忍耐力と元気に感嘆するのも当然だろう。でも中国に古くから住んでいる人に、その感嘆の念を告げたら、少々馬鹿げた人間だと思われるだろう。相手は、無理もないがというように肩をすくめて、クーリーというのは獣なんですよ、二千年も前から父から子へと荷物を运んで来たのですから、あいつらが陽気に仕事をしているのも当たり前です。子供の時から始めているのを、ご自分でもご覧になることができますよ。野菜笼を吊るした天びん棒を重そうによたよた担いでいる、小さな子供に出会うこともありましょう。
 次第に暑くなるにつれて、クーリーたちは上着を脱いで、上半身裸で歩くようになる。すると、地面の上に荷物を置いて、でも天びん棒は肩に載せたまま、ちょっとの間しゃがんで休んでいる男を見ると、肋骨の下で疲れた哀れな心臓がどきどき打っているのがわかる。病院の外来诊察室で心臓病患者に見るのと明らかに同じ症状だ。奇妙なまでに痛々しい光景だ。それからクーリーの背中を見る。毎日毎日長い間棒が押しつけられて、赤いたこが出来、時には皮膚が破れて傷になっていることさえある。棒のこすれた大きな傷に包帯もなく、手当もしていない。だが、何よりも奇妙なことに、残酷な仕打ちに会っている人間に自然が適応したいと思ったかのように、棒の当たるところに妙な奇形、ラクダのような一種のこぶが出来ていることが時々あるのだ。それでも彼らは、激しい鼓動、怒れる傷、激しい雨、焼けつくような日光もものとせずに、夜明けから日暮れまで、毎年毎年、子供の時から老年の極みに至るまで、永遠に働き続ける。身体に脂肪がこればかりもなく、しなびた皮膚がたるみ、小さな皺だらけの猿のような顔をして、髪の毛も薄く白くなった老人も見かける。やっと休息を取ることのできる墓の一歩手前を、荷物を担いでよたよた歩いているのだ。それでもクーリーは行く。正確に言うと走るのでも歩くのでもなく、足早に身体を横にして動くのだ。目を地面に注いで足場を選び、顔には緊張と懸念の表情を浮かべている。進んでいく彼らの姿を、もはや模様などとは言っていられない。彼らの労苦に胸が重くなる。同情しても何にもならぬが、憐れみでいっぱいになる。
    中国では荷役の獣は人間なのだ。
「人生の苦労と涙に苛まされて、一時も休むあてもなく足早に人生を通り抜ける ---- これは哀れではないだろうか。絶え間なく労働を続け、その楽しい報酬を生きている間に受けることもなく、疲れ果て、ある日突然、どことも知れぬ所へと旅立つ ---- これこそ間違いなく悲しみの種と言うべきではないか」
    と中国の神秘家が書いている。

小池滋 訳
筑摩書房

*中国語版は明日

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