巻子の言葉が気になる。
<緑子、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。>
巻子は<ほんまのこと>はない、とは言わない。<ないこともあるねんで>と言う。<ほんまのこと>がある、という前提で問いかけてくる緑子に対して、巻子は、それはないこともあると言う、けれど、まったくないとも言わない。曖昧さが留保されている。
それがおそらく、現実を受け入れて生きていく大人としての知恵であって、生きる意味を激しく問い詰めてくる緑子の心も、生きていくことの不明瞭さを不明瞭なまま受け入れていく覚悟が必要だったということなのかもしれない。
そう考えると、この小説全体を覆う饒舌さ、だらだらと切れ目なく続く文体も、腑に落ちるような気がする。物事は言葉によって分別される。けれどはっきりと分別されない心を人は持っている。その曖昧な心を曖昧なまま诚実に忠実に表現しようとすれば、それは饒舌にならざる得ないのだろう。それでも言葉を尽くせば尽くすほど、<言葉が足りない>という事態に陥るのだ。