先日、お年寄りに席を譲って当然という顔をされたら怒りを感じるという話題に違和感を覚える、と書いた。
それで周りの人に聞いてみてわかったことがある。老人に席を譲るのは、老人が体力的に劣っているから、弱者であるから労わるためである、という考え方が一般的らしい。私はそうではないと思っていた。いや、もちろん立っているのが大変だろうという気持ちが全くないわけではない。でもそれよりもむしろ、席を譲ることは年長者に対する敬意の表れという意味をより多く含んでいるのだと思っていた。どうやらこれは古い考え方らしい。
「老人に席を譲る」というマナーが持っている本来的な意義は「年長者への敬意」である(あった)と思う。その古い考え方に従えば、老人は親切を施されて席を譲られるのではなく、当然受けるべき敬意を受けるだけなのだ。とすると、席を譲られて当然のような顔をして座った老人は、自分の信じる古い慣習に従っただけであったということではないだろうか。
譲った方の若者はどうだろう。そもそも電車の中で自分と老人は対等に座る権利があるが、自分はその権利を老人に自主的に譲ったのだから感謝されてしかるべきだと思ってる。
逆に、席を譲られるとムッとしたり、余計なお世話だと言わんばかりに断わるお年寄りもいるらしい。だから思春期の女の子などは、せっかく勇気を出して席を譲ったのに断わられて恥ずかしい思いをした、お年寄りは席を譲られたら素直に座って欲しいと考えたりする。(以前、新聞でそういう投書を見た。)
どうもこれは自分が老人だとみなされることに対して遺憾に思う心境から発生する現象と思われる。自分はまだまだ元気なんだ、労わってもらう必要はないという自負がある。施されたくもない親切を施されて感謝の言葉を口にしなければならないとしたら座らない方がましではないか。
いっそのこと、若者も老人も対等なのだから席を譲ることはないと割り切ってしまえば、事は簡単なのだ。弱者だから席を譲るというならば、妊婦とか松葉杖の人とか立っているのも大儀そうなよぼよぼの老人とか、見るからに弱者と思われる相手にだけ席を譲ればいい。なぜ「お年寄り」という年齢による一律のくくりを設けるのか。
冒頭の話を取り上げていたテレビ番組のゲストがいみじくも言っていたように、おそらく今の日本は「年寄りというだけで威張っていてはいけない」時代である。それなのに「年寄りには席を譲らなければならない」という古いマナーは形骸化して残っている。そこでマナーを支える心のあり方として、老人は当然弱者なので親切を施さなければならず、けれど立場的には対等なので、親切とその代価である感謝の気持ちとを対等にやりとりしなければならない。(老人を一律に弱者とみなす考え方はそれ自体、老人を対等に扱うどころか一段低く見ているようにも思える。)
一方で「老人には席を譲らなければならない」と年齢による特別扱いの枠を設けながら、一方では「年寄りというだけで威張ってはいけない」という平等主義、能力主義が浸透している。席を譲るという行為に見られる心理のややこしさは、この両者の価値基準の矛盾に起因しているのではないかと思った。