人生とはしょせん思い通りにいくものではないとわかってはいる。いちいち過去を振り返って後悔するのは、自分のポリシーに反する。それでも、世間の人々が易々と手に入れているのに私には求めても得られないものがあるのだということを、時折思い知らされ沈鬱な気持ちになる。大声で泣き叫べたらよいのに。
名月をとってくれろと泣く子かな 小林一茶
…という文章をひと月ほど前に書いた。しかしなんとなくブログには載せる気がせずに、そのまま置いておいた。
すると先日ふと一休さんを思い出した。月を取って来いと無理難題をふっかけられた一休さんが、桶に水を汲んで、水に映る月をどうぞと差し出す。そんなお話があったような気がする。確か一休さんだったと思うが、違うかもしれない。
そんなふうに、月を取ってくれろと泣く子に、月を与えることも実は可能なのだ。一方で、たとえ月を差し出すことができたとしても、それは水に映る影、本物ではないとも言える。この世のすべてのものが水に映る月影の如きものだとしたら?
空の月はひとつだが、水はどこにでもあり、水がある限り無数の月が存在する。そのひとつを取出して、ほら、これが月だよ、と手元で指し示すこともできる。空の月と水面の月とどれほどの違いがあるだろう?
外に出て月を仰いだ。月光が煌々と降り注いでいた。