前回からの続き。
現代どどいつです。
古典どどいつは詠み人知らずで歌い継がれてきたものなので、より多くの人々の興味を引いた句が数多くの詩の中から自然と残されてきていると思います。それゆえに人の普遍的な感情が表現されていて多くの人の共感を呼びます。しかし一方で、作り手の顔が見えず、平板で型通りという面がないでもありません。
その点現代どどいつは、読み手の個性が非常に強く出ているような気がします。異なる読み手の異なる性質や暮らしぶりが垣間見え、どの句にもそれぞれの味わいがあります。選ぶのに苦労しました。
まずは「恋」の句から。(*分類は私の独断によるものです。)
恋の地下水流れは通う 胸と胸との二つ井戸 (有光牛声)「井戸」というのは偶然にも心理学用語である「イド」という言葉と音が似ています。(「イド」とは「純粋に快楽を求める本能的性欲動の源泉」で「エス」ともいう。)
一人一人の胸の中の深い井戸が、地下水脈によって通じ合う、それが「恋」だと定義してもいいかもしれない。
村上春樹に『ねじまき鳥クロニクル』という小説があります。その中にも「井戸」と「水の流れ」がモチーフとして出てきます。その時、私は、「井戸」は人の心の奥底、「水の流れ」は感情の流れを暗示しているのだと思いました。
すれ違う人の袖さえさわれば恋に どうやらなりそなおぼろ月 (須田栄)袖触れあうも他生の縁と言うけれど。おぼろ月、というのがミソですね。恋の始まりは、ぼわっとして、もやっとして、輪郭のはっきりしない月の光のようなもの?
わたしの心が溶けてくように 紅茶に沈んだ角砂糖 (馳崎あき子)この句だけがなんだかちょっと毛色が違うような、和菓子が並んだショーケースの中にひとつだけショートケーキが混じっているような、そんな感じがして心引かれました。ちょっと「サラダ記念日」っぽい感じです。
今日も逢ってるきのうも逢った 去年が恋しい日記帳 (船井小阿弥)燃え上がる熱い恋の想いを詠うのかなと思ったら、後半、オチがありました。ぐっと盛り上がるかとの期待をすっとはずして、さらになるほどと思わせるその展開がお見事。
まだまだあります。ちょっと疲れてきました。最後までがんばれるかな?
次回に続く。