もう一度読んでじっくりと考えようと思ったけれど、いつになるかわからないので、とりあえずざっくりとした感想をまとめておく。(以下、結末に触れる部分があるので、これから読もうと思っている方はご注意を。)
『1Q84』の中で繰り返し且つ重層的に語られる主旋律は、理不尽な暴力による支配に苦しむ人たちの姿である。物語の中には、柔らかな心や肉体を蹂りんされ傷つけられる子どもや女性が多く登場する。主人公の二人からして、子どもの頃、自らの意志に反して親から強制された行動に従ってきた経歴を持っている。それはつまり、心と体が引き裂かれるような体験ではなかろうかと思う。
多くの人は多かれ少なかれ、思い通りの人生を歩むことができない。しかし、もしそれが自ら選び取った人生であると感じることができるのなら、それはそれで前向きに現実に立ち向かっていくこともできよう。しかし、もし目の前の現実が暴力的に押し付けられるものであったとしたら、自分自身の力で変えようがないという無力感や絶望に囚われて抜け出せないようなものであったなら、心はひたすら現実から目を背け、壊れやすい内面を守ることだけで精一杯となるだろう。
結論を先に言ってしまえば、『1Q84』とは、引き裂かれた心と体をひとつにすることによって、自分自身の人生は自分のものだという実感を抱かせ、現実に立ち向かうための力の源泉を取り戻そうという試みではないかと思う。
主人公のふたりは、ふたりがひとつになって、ふたつの月が存在する相対性の世界から抜け出すために、ひたすら互いを求め続け、出口を探る。この世界に実際にふたつの月が存在するのか、それとも、彼らの目にだけふたつの月が映っていて他の人々の目には月はひとつにしか見えないのか、それとも月がひとつであるのは自明なので人々は夜空など見上げることがないのだろうか。
牛河という人物が印象的だ。主人公のふたりより印象に残るほど。牛河の死はあっけなくかつ衝撃的だった。そしてもっと衝撃的なのは、死体となった牛河の口からリトルピープルが生まれる場面である。牛河は強いコンプレックスを抱えながらも、一方で実務的にはきわめて優秀な人物として描かれている。時折、彼の脳裏に浮かぶ幸せな家族像は実際に一度は彼の手の中にあった現実であるにもかかわらず、現実感をともなわない空想の楽園のようだ。彼はかつてあった幸福な家族像をよすがとして、現実の自分はただ生きるためだけに生きている。自分の行動の意味など考えない。考えることを封じている。しかしその底には常に現実の社会に対する強い恨みを抱えている。そうした牛河からリトルピープルが生まれるというのは、とても興味深い。押さえ込まれたルサンチマンがリトルピープルに姿を変えるのではないか。
思いつくままに書いてみたけれど、やはり読み返してみないとよくわからないところが多い。例えば、「ふかえり」の存在とか、「空気さなぎ」の意味とか。