テレビをつけたら、たまたま、爆笑問題がどこかの大学で討論会をしていた。たぶんNHKの番組だと思うのだけれど。
その中で、大田光さんがこんなことを言っていた。彼は以前、ネットの2ちゃんねるでひどく嫌われていて、死ね死ね死ね、と何行にもわたって書かれ、当時ひどく傷つき気に病んでいたそうだ。
ある時、ある若者が大田さんを名指しで「殺す」と書き込み、それを見た時、彼はほっとしたと言う。
「死ね」っていうのは、突き放したような感じがするけれど、「殺す」っていうのは、僕が、っていう相手が見える気がして。だからほっとしたんだ。
「殺す」と書いた人は警察につかまった。「死ね」と書いても何の罪にも問われないけれど、「殺す」と言ったら脅迫罪になるらしい。
「殺す」という言葉には、僕か君かどちらかが唯一の存在だ、僕が存在するには君を殺すしかない、という感じがある。「死ね」というのは、勝手に死ね、僕と君の間には何の関係もない、僕は僕で生きる、君は君で勝手に死ねばいい、という感じだ。
二、三十年前「(カラス、なぜ鳴くの?)カラスの勝手でしょ」という文句が流行った。数年前にも「そんなの関係ねぇ」というギャグが流行った。関係性を切り離そうとする潮流はもう何十年も前からずっと続いているのだな、と思う。
先日も、小学生の姪っ子が、学校の文化発表会でクラスで出し物をするのだけれども、男子グループの案が通って、女子グループの案は通らなかったんだと言う。男子グループの案はこれこれこういうものなんだよ、「まったく、意味わかんない」、だそうだ。最近よく耳にする言い回しだ。初めから意味を追求する気はない。通路は閉ざされている。
現代という時代は相対主義の時代なんだそうだ。近代の思想では、言葉は真実を語る、と信じられていた。まず、どこかに真理とか正しいことというのが絶対的に存在していて、言葉によってそれを語ることができると。
それが現代では、絶対的な真理なんてどこにもなくて、誰が語るかということが主体で、君も正しければ僕も正しい、善も悪も何でもあり、正しさなんて価値観なんて相対的なものにすぎない時代だと言う。
それでも、人は真実なるもの、永遠なるもの、を求めたがっているんじゃないかと思う。人類すべてがいつか同じ真理の光に包まれてひとつになることを夢みてるんじゃないかと思う。
他人に投げつける「死ね」という言葉も、もし本当に僕の生も君の死もまるっきり関係ないと思っているのなら、そんな言葉すら投げつける必要はないはずだ。突き放すことは相手を傷つけることだと知っていて、自分の言葉が相手に与える影響を試している。関係したがっている。ただし責任だけは負わずに。