安倍晋三首相は何を考えているのか――。中国政府が最近、外務省幹部にこんな質問を露骨にぶつけてくるという。「対話のドアはオープン」と言いながら、中国に譲歩する余地を見せないからだ。どれほど摩擦が強まっても、対中けん制に軸足をがっちり置く安倍外交。単に中国が嫌いなのか、それとも本音は別のところにあるのか。安倍は日本をどこへ連れていこうとしているのか。
■安倍ドクトリンの3本柱
「あなたの外交理念は何ですか?」
4月8日、安倍は首相官邸を訪れた米ソフトウエア大手オラクルの最高経営責任者(CEO)、ラリー・エリソンから単刀直入にこんな質問を受けた。エリソンは新経済連盟が開いた「新経済サミット」に出席するため来日し、新経連代表理事の三木谷浩史が連れてきた。関心は経済政策「アベノミクス」だけでなく外交政策にも向いた。
安倍は「3つある」と答え、ゆっくりとした口調で説明した。
「1つ目は日米同盟を軸にしてアジア太平洋地域や世界の平和と安定を確保することだ。2つ目は環太平洋経済連携協定(TPP)など経済統合を進めていくこと。3つ目は自由と民主主義、法の支配など普遍的価値を広げていくことだ」
安保、経済、価値意識の3つの角度からなる外交理念。政府高官は「これが安倍ドクトリンの3本柱」と位置づけたうえで「いずれも進めていけば、中国に対する抑止戦略に行き着く」と解説する。
■異口同音の「中国ナショナリズム」
4月23日、東京・銀座のすし店「すきやばし次郎」。「中国は軍事費が10年間で4倍、20年余りで40倍に増えている。南シナ海では力による現状変更の試みを続けている。アジアに強く関与するメッセージを出すべきだ」。すしをつまみながら安倍がこう語りかけると、米大統領のオバマはうなずいた。
ケミストリー(相性)が合わないとされる安倍とオバマだが、安倍は「ビジネスライクなオバマは嫌いじゃない」と周囲に漏らす。ビジネスライクな相手のやり方には、こちらも実務的に論理で攻める。沖縄県の尖閣諸島の防衛義務を負う言質をオバマから取り付けた。
安倍は4月21日には官邸で米共和党の下院院内総務、カンターや下院予算委員長、ライアンらと会談し「中国は中国共産党の国だ。中国共産党が一党支配を維持するためによりどころにしているのは2つ。一つは経済成長、もう一つはナショナリズムだ」と分析。「中華民族の偉大な復興」をスローガンに国威発揚をはかる習近平指導部の危うさを説いた。
この9日後の4月30日。安倍が触れた「中国ナショナリズム」を異口同音に警告した外国首脳がいた。ドイツを訪問した安倍が首相のメルケルに「ウクライナ問題は欧州の問題だけでなく、アジアの問題でもある。中国には法の支配、海洋の自由を求めていく」と語ると、メルケルからは「中国はナショナリズムだ」との反応が返ってきた。
中国の軍備増強と異質さが、日米欧の連携を強める「触媒」になっている。
■「世界の目指すべき姿を主張していく」
「中国包囲網」を狙っているように見える一連の動きだが、安倍は「単なる中国けん制に矮小(わいしょう)化してもらいたくない」と不満を示すこともある。どういうことなのか。
2012年12月に発足した第2次政権の外交のスローガンは「積極的平和主義」。当初、外務省の事務方が「能動的平和主義」という表現を提案したが、安倍が「能動的では分かりにくい」と難色を示して「積極的」に変えた。
安倍にとっては、まずはこうした大きな総論の戦略に主眼があり、そのうえで各論として対中抑止の戦術がある。つまり、安保、経済、価値意識という3つの外交理念を推し進めるというのが総論。それを実現しようとすると中国とぶつかってしまい、抑止戦略が必要になる、というのが各論だ。単に中国が嫌いなわけではない、というわけだ。
安倍は外務省幹部に次のようにも説明している。
「戦後の日本は自分からは何も言わず、国際社会から『日本はこれをやってください』と言われて、まじめにそれをやっていた。これからは世界の目指すべき姿を主張すべきだ。自由や民主主義の普遍的価値を広めることで、豊かで平和な世界が実現できるという概念を日本も明確に示していく」
安倍はこれまでのような対米追随路線だけでは日本の国益は守れないと考え、日本人としての価値観を積極的に世界に向けて発信していくことに国益を見いだす。それが日本人の民族意識を刺激し、保守層を中心とする高い支持率につながっているといえる。
■国家主席へのメッセージ
「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」を掲げる安倍が就任から約1年5カ月で訪問したのは37カ国。安全保障と経済の両輪で各国との連携の輪を広げる。だが、日本にとって肝心の隣国である中国と韓国はまだ訪れていない。地球儀外交に死角が残る。
「外交は結果がすべてだ」。安倍からこう聞いた政府関係者は多い。交渉の過程がどうあろうとも、最終的に国益につながる結果を出せるかが、首相としての責任になる。
4月8日、安倍は官邸で故・胡耀邦元中国共産党総書記の長男、胡徳平と会談した。国家主席の習近平と胡徳平はともに「太子党」と呼ばれる高級幹部の子弟で、関係は近い。胡徳平は官邸を去る際に記者団に「民間の訪問」とだけ述べ、安倍と会談したかなどは一切明らかにしなかったが、実は安倍から習近平へのメッセージを携えていた。
「日中関係は最も重要な2国間関係の一つだ。課題があるからこそ対話すべきで、大局的見地からあらゆる分野で未来志向の協力関係を発展させていきたい。戦略的互恵関係の原点に立ち戻りたい」。安倍がこう語ると、胡徳平は習近平に伝える考えを示した。
安倍の投げた「戦略的互恵関係の原点に戻る」というボール。どういう意味だろうか。
「戦略的互恵関係」は06年10月に第1次政権の初の外国訪問先として中国を訪れた安倍が当時の国家主席、胡錦濤と合意して打ち出した日中関係のキーワードだ。安倍の前任者、小泉純一郎による靖国神社参拝で冷え込んだ日中関係を仕切り直し、歴史問題の比重を下げ、問題があっても直接会って話し合う関係を示していた。
いまや習近平は歴史問題を再び日中関係の中心に据え、首脳会談の実現に条件を付けている。「原点に戻る」とは、首脳同士が直接会って話し合った06年の胡錦濤時代に戻ってほしいとのメッセージにほかならない。
■「友好は手段で目的ではない」
一方、中国にとって「原点に戻る」とは12年の尖閣諸島の国有化や昨年末の安倍の靖国神社参拝の前の状態にすることだ。だから中国側は「尖閣」と「靖国」の2つの課題を関係改善の条件として安倍に突き付ける。
「A級戦犯がまつられている靖国神社を参拝することは中国人民の心を傷つける。二度と傷つけるようなことをしてほしくない」。安倍が二度と靖国神社に参拝しないよう求めた。尖閣諸島(中国名・釣魚島)を巡る日中の対立では「釣魚島は係争地である。係争地であることを認めれば関係打開の道が開ける」と力説した。
安倍は自民党関係者に「靖国神社に行かないと約束することは中国の内政干渉を許すことになる。しかも国のために戦った英霊に対する冥福を祈る行為自体に対する内政干渉で、許してはならない」と強調する。尖閣諸島を係争地と認める提案も完全に拒んでいる。
安倍は周囲にこう話している。「外交は国益を実現する場だ。友好は手段であり、目的ではない。中長期的に国益にかなう判断をすれば、一時的に関係が崩れても仕方がない」。歴史や領土の問題では譲れない一線があり、固い信念と国益観が現実主義外交の前に立ちはだかる。
■一触即発のリスク
だが、安倍の考える国益の追求は、「一時的な関係悪化」にとどまらない危うさもはらむ。自らの外交理念を推し進めていくことが、意思に反して思わぬ対立を招く可能性もある。
5月24日には中国の戦闘機が東シナ海の公海上空を飛行していた自衛隊機に異常接近した。同日夜に防衛相の小野寺五典から電話で報告を受けた安倍は「引き続きしっかりした態勢をとってほしい」と指示。28日の衆院予算委員会では「偶発的事故につながりかねない危険極まりない行為」と批判した。
中国側は「日本側が(中ロ演習空域の)通告を無視して偵察機を中国の防空識別圏に進入させ、演習を妨害した」(外務省の秦剛報道局長)と反論。中国共産党は外交より内政や軍事を優先する。東シナ海で一触即発の事態が起きかねない現実が浮かび上がる。
5月30日夜、シンガポール。「既成事実を積み重ね、現状の変化を固定しようとする動きは強い非難の対象とならざるを得ない」。アジア安全保障会議に日本の首相として初めて出席した安倍は基調講演で、中国による防空識別圏の設定や南シナ海での衝突を念頭に中国を批判した。南シナ海の領有権争いで中国と対立するベトナムとフィリピンへの支持も表明し、中国へのけん制を強めた。
11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議は北京で開かれる。安倍はこれに合わせて2国間の首脳会談を実現させたい考えだが、中国外務省の幹部は「このままでは難しい」と語る。習近平指導部には経済や地方、民間の交流は広げる一方、安倍を相手にしない空気が漂う。安倍と習近平が探り合う妥協点と、そこへ向かうための腹合わせのパイプはまだ何も見えない。
=敬称略
(編集委員 佐藤賢)