智恵袋の罪
私は、時々、ヤフー智恵袋の中国語カテゴリを利用する。中国語に関して何かわからないことがあって、近くにすぐに答えてくれる人がいない時、智恵袋で質問するのだ。その代わりといってはなんだけれど、たまたま私が答えられる質問に出会ったら、答えるようにしている。
先日、こんな質問に出会った。
北京に留学に来たばかりなのだけれども、一年間大学で中国語を勉強してきたのに、現地に来てみたらちっとも聞き取れないし、しゃべれない。同じ寮の外国人は自分以外は中国語の会話に困らない韓国人留学生たちなので、自分は孤立してしまっている、どうしたらよいだろうか。
…と、要約すると、だいたいこんなふうな内容である。勉強に行き詰って精神的にまいっている様子が伝わってきて、私もその昔北京に留学していた身で、何かアドバイスできるだろうかと一晩考えた。次の日、質問文をもう一度読み返してみて気がついた。
北京に着いたのが3月1日、質問を出している日付が3月2日。まだ1日しか経ってない…。てっきりひと月くらい経って孤独に苛まされてどうしようもなくなっての話だと思っていた。外国に来て一日経っただけで、ネット上で悩みを公開し、更にそれに対してすぐに誰かが答えてくれて何かしらの反応が得られる。
パソコンのお蔭で、ネットのお蔭で、見も知らぬ誰かと常に繋がっていることができるようになった。これは、もしかしたらとても不运なことであるのかもしれない。いつでも誰かに何かを伝えられて答えが返ってくるネットという手段があるがために、たった一日の孤独さえ噛みしめる余裕が与えられない。
以前、ラジオで谷村新司が、携帯電話の功罪について、同じような話をしていた。
携帯電話のない時代、デートの待ち合わせの時間というのは、二人の間に何かを醸しだす重要な役割を果たしていた。相手はどうして遅れてるんだろうか、何かあったんじゃないか、時間を間違えたのだろうか、それともすっぽかされたんじゃないか、嫌われただろうか、さまざまな想像をめぐらす。それだけに、相手が現れたときの喜びもまたひとしおだ。事情がわからないまま待つその時間、相手のことをいろいろと考えながらひとりで待つ時間、その時間に、ある種の特別な想いが熟成されていく。
…というような話だった。
その昔、中国に留学すると決めたとき、私は、今までの関係性が剥ぎ取られた場所で暮らせば、何か新しい自分を創り上げることができるかもしれないという期待を漠然と抱いていたような気がする。世界中どこにいてもどんな時間でも同じ空間にアクセスできるネットという存在は、自分自身で自分の物語をじっくりと練り上げ熟成させていくという時間を、それを必要とする若い人たちから奪い取っているんじゃないだろうか、と思った。