前々回、大阪府維新の会が提出した君が代起立斉唱条例の話に触れた。
この話を夫にしてみた。
「思想良心の自由じゃなくて、組織マネジメントの問題だって。今時は、思想良心よりも、組織の経営が大事ってことらしいよ。」
「そう言ってても、それは思想の問題に決まってる。」
「え?橋本知事は、そうじゃない、って言ってるんだけど。」
「それは表面上でしょ。根っこにあるのは愛国的精神に違いない。けど、そこは触れられない問題だから、そう言うんだよ。愛国っていうのを追及していくと、天皇に行き着くけど、それは日本人にとって言ってはいけないことになってるから。」
私がちょっと考え込むと、夫が聞いた。
「日本国って誰のもの?」
言葉につまってしまった。国民のものと答えたかったが、そう断定するのはなんだか気が引ける。すると、夫は、
「天皇のものでしょ。」
と、こともなげに言う。
「えー、それは、ちょっと違うと思うな。」
「違わないよ。天皇は日本国の象徴でしょ。」
「それにしても、君が代の問題って、ひと昔前はもっと盛んに論議されてたんだよ。とすると、それすら語られなくなった最近の社会は言論の自由という点では後退してるってことなのかな?」
と、私。
「日本人ってそういうものでしょ。」
この会話の時点では、今の時代日本国が天皇のものだなんて考える人はいないのに、と思っていた。しかし次の日、ふと君が代の歌詞が頭に浮かんだ。そうか、“君が代”とは、“天皇の世”なのだった。そしてそれは千代に八千代に続くのだ。
そして、日本人は、いったん社会の大多数が現状を肯定してしまったら、それに抗うことが困難な性質を持っている。今まで続いてきたものは、これからも永遠に途切れなく続くのが自然だと感じる。継続的な関係性を、意志の力で断ち切ることはとても難しい。