日本人のノーベル赏受赏者
物理学赏 [编集]受赏年 名前 学歴/受赏理由
1949年(昭和24年) 汤川秀树 京都帝国大学理学部卒、理学博士(大坂帝国大学)
中间子の存在の予想
1965年(昭和40年) 朝永振一郎 京都帝国大学理学部卒、理学博士(东京帝国大学)
量子电気力学分野での基础的研究
1973年(昭和48年) 江崎玲于奈 东京帝国大学理学部卒、理学博士(东京大学)
半导体におけるトンネル効果の実験的発见
2002年(平成14年) 小柴昌俊 东京大学理学部卒、ロチェスター大学大学博士课程修了 (Ph.D.)、理学博士(东京大学)
天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的贡献
2008年(平成20年) 小林诚 名古屋大学理学部卒、理学博士(名古屋大学)
小林・益川理论とCP対称性の破れの起源の発见による素粒子物理学への贡献
益川敏英 名古屋大学理学部卒、理学博士(名古屋大学)
小林・益川理论とCP対称性の破れの起源の発见による素粒子物理学への贡献
化学赏 [编集]受赏年 名前 学歴/受赏理由
1981年(昭和56年) 福井谦一 京都帝国大学工学部卒、工学博士(京都大学)
化学反応过程の理论的研究
2000年(平成12年) 白川英树 东京工业大学理工学部卒、工学博士(东京工业大学)
导电性高分子の発见と発展
2001年(平成13年) 野依良治 京都大学工学部卒、工学博士(京都大学)
キラル触媒による不斉反応の研究
2002年(平成14年) 田中耕一 东北大学工学部卒、东北大学名誉博士
生体高分子の同定および构造解析のための手法の开発
2008年(平成20年) 下村脩 旧制长崎医科大学附属薬学専门部卒、理学博士(名古屋大学)
緑色蛍光タンパク质 (GFP) の発见と生命科学への贡献
2010年(平成22年) 铃木章 北海道大学理学部卒、理学博士(北海道大学)、北海道大学工学部名誉教授
クロスカップリングの开発
根岸英一 东京大学工学部卒、ペンシルベニア大学博士课程修了 (Ph.D.)、パデュー大学教授
クロスカップリングの开発
生理学・医学赏 [编集]受赏年 名前 学歴/受赏理由
1987年(昭和62年) 利根川进 京都大学理学部卒、カリフォルニア大学サンディエゴ校博士课程修了 (Ph.D.)、マサチューセッツ工科大学教授
多様な抗体を生成する遗伝的原理の解明
2012年(平成24年) 山中伸弥 神戸大学医学部卒、カリフォルニア大学サンフランシスコ校博士课程修了、京都大学再生医科学研究所
様々な细胞に成长できる能力を持つiPS细胞の作制
文学赏 [编集]受赏年 名前 学歴/受赏理由
1968年(昭和43年) 川端康成 东京帝国大学文学部卒
『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本质を描いた、非常に繊细な表现による叙述の卓越さに対して
1994年(平成6年) 大江健三郎 东京大学文学部卒
『万延元年のフットボール』など、诗的な言语を用いて现実と神话の混交する世界を创造し、穷地にある现代人の姿を、见る者を当惑させるような絵図に描いた功绩に対して
平和赏 [编集]受赏年 名前 学歴/受赏理由
1974年(昭和49年) 佐藤栄作 东京帝国大学法学部卒
非核三原则の提唱
経済学赏 [编集]2012年10月现在、ノーベル経済学赏を受赏した日本人はいない。
日本にゆかりのあるノーベル赏受赏者 [编集] 物理学赏 [编集]受赏年 名前 学歴/受赏理由/日本との関系
2008年(平成20年) 南部阳一郎 东京帝国大学理学部卒、理学博士(东京大学)
素粒子物理学における自発的対称性の破れの発见
日本にて生まれ育ち、日本の大学および大学院を卒业・修了している。ノーベル赏として评価された研究は渡米后のものだが、まだ日本国籍を有していた。その后1970年(昭和45年)に49歳でアメリカ国籍を取得した际に日本国籍を失っており、公式にはアメリカ人の受赏者として扱われる。
化学赏 [编集]受赏年 名前 学歴/受赏理由/日本との関系
1986年(昭和61年) 李远哲 国立台湾大学卒、博士(カリフォルニア大学バークレー校)、日本学士院客员
化学反応の素过程についての研究
大日本帝国领だった台湾出身の台湾人。幼少时は日本语を话した。旧帝国大学のひとつ、台北帝国大学を前身とする国立台湾大学を卒业后、国立清华大学大学院で学び、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得。
1987年(昭和62年) チャールズ・
ペダーセン セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ卒
高选択的に构造特异的な相互作用をする分子(クラウン化合物)の开発と応用
大日本帝国の保护国だった大韩帝国の东莱郡(现在の大韩民国・釜山広域市)にノルウェー人の父と日本人の母との间に生まれ、良夫という日本名も持つ。8歳まで朝鲜で育ち、教育を受けるために长崎県を経て、10歳で神奈川県横浜市に移り、18歳まで同市にあるインターナショナル・スクールで学んだ后、アメリカに渡った。后にアメリカに帰化した。