森 健一郎
矢野経済研究所 情報・通信産業本部 ICT産業調査室 上級研究員
2008年現在,米国発の金融危機や原油価格高騰の影響を受け,日本・北米・欧州などの先進諸国の自動車市場では販売低迷が続き,先行き不透明な状況にある。その一方で,中国やインド,ASEAN地域,ロシア,東欧などの新興諸国では多少の減速感はあるものの,これから自動車市場の本格的な成長期に入るとの期待が寄せられている。
新興諸国で販売される自動車には,中国において5万元(約70万円)ほどで販売されている「5万元カー」や,スズキやインドTaTa Motors社がインドで展開する量販車など,日米欧向けの車種に比べて低価格の小型車が多い。そのため,これらの車種に搭載する車載電装品も,コストを十分に考慮し,機能を限定したものになる傾向が強い。
ただ,カーナビを中心としたインスツルメンツ・パネル周辺の情報システムは,運転者が直接触れることから自動車の魅力を高める部分として重要かつ不可欠な存在である。自動車メーカーにとって,情報システムは車種の魅力を左右する大きな差異化ポイントとなりつつある。
北京五輪で市場は急成長
中国では,北京五輪に引き続いて,2010年に開催予定の上海万博を成功させようと,国家を挙げてさまざまな事業に取り組んでいる。特に2007~2008年は,すべてが北京五輪中心に動いたといえるだろう。
具体的には,道路や公共交通網は,五輪の観戦目的で海外から訪問する観光客のためにさまざまな整備が進んだ。特に,開催都市の北京では大気の環境を改善し,青空を見えるようにするため,民間車両の走行を規制した。「本日,偶数ナンバー車は走ってはいけない」といった対策まで実施し,交通量を抑制したほどだ。
ITS(intelligent transport systems)への取り組みについても,特筆すべき動きがあった。国や主要都市が積極的に推進し,企業の参加を呼び掛けた結果,民間需要も盛り上がり,市場が大きく進展した。特に,①カーナビやPND(簡易型カーナビ)の急激な市場拡大,②カーナビ用地図メーカーや,施設情報などのPOI(point of interest)を作成する企業の増加,③渋滞情報をはじめとする情報提供サービスの実証実験開始,という三つの動きが,中国ITS事業の基礎を形成する重要な布石になったといえる。
①のカーナビやPND市場については,2007年に急激に拡大した。新興諸国の中でも中国は人口が約13億人と,その市場規模は巨大である。しかも,情報機器に対する国民の関心が高く,現地メーカー製のPNDが普及しつつある状況だ(図1)。
中国でのカーナビとPNDの合計販売台数は, 2006年に約60万台,2007年に約154万台と急成長を遂げ,2008年は約283万台に達する見込みである。2007年の内訳は,カーナビが約34万台(自動車メーカーのライン装着品と販売店での装着品,市販品を含む),PNDが約120万台である。中国でのPNDの市場全体に占める比率は,78%にまで高まっている(図2)。
現在,中国におけるPNDメーカーは200社以上ある。地域別では上海市周辺に30社以上,深セン市に100社以上,このほか広州市にも数多くのメーカーがひしめく。携帯電話機やデジタル・カメラの市場が立ち上がる際も同様だったが,販売機会を見込める分野に多数の企業がこぞって参入するのは,中国の特徴の一つである。
中国メーカーには付加価値の高い新製品を開発し,じっくりもうけるというよりは,多数の企業が一度に市場参入し,すぐに低価格競争に突入してしまう傾向がある。その結果,中国メーカーの多くは研究開発の資金が不足気味になりやすく,技術開発などで海外メーカーの後塵を拝することが間々ある。
例えば携帯電話機において,高級機種はフィンランドNokia Corp.,米Motorola, Inc.,韓国Samsung Electronics Co., Ltd.にシェアを握られる一方,中国メーカーは低価格機種で価格競争を繰り広げている。同様のことがPND市場でも起こる可能性は高い。
地図をめぐる中国の独自性
②のカーナビ用地図メーカーやPOI作成企業については,2007年から2008年にかけて中国で増加した。中国ではカーナビ用地図に関する測量・作成・販売はすべて,国家測絵法に基づき許認可を受けなければ事業化できない。2007年には新たに3社の地図メーカーが許認可を受け,認定企業は合計で11社となった。
その結果,地図作成を手掛ける企業の技術者数は,中国全体で1万人近くになったという。カーナビの地図データで利用するPOIの作成企業も続々と増えているようだ。ただ,地図関連の事業については中国ならではの問題点が4項目ほど挙げられる。
第1に,中国の地図情報は軍事機密になる点。機密事項であるため,日本のように詳細な地図を作成することが不可能であり,海外の地図メーカーが参入することは非常に難しい状況になっている。
第2に,許認可を受けた地図メーカーが11社あるものの,実際に地図データを作成・販売しているのは,四維図新(NAVINFO社),高徳(Autonavi社),長地友好(CHANGDI YOUHAO社),霊図(LINGTU社),凱立徳(Careland社),易図通(Emapgo社)の6社だけという点である。残りの数社は,投資目的のためだけに認可を取ったともいわれている。
第3に,地図の更新頻度が少ないと使い物にならない点である。中国では現在,次々と道路やビルを建設しているため,3カ月たつとまるで景観が変わってしまう。カーナビ用地図も,少なくとも3カ月に1度くらい情報を更新しなければ,有用なものにならない。この問題に対処するためには日本で自動車メーカーなどが開始した地図データの差分を配信するサービスが考えられるが,当面はNAVINFO社が実施している,差分データをパソコンでダウンロードするような方式を各社が独自に手掛けることになるだろう。
第4に,地図情報に対する知的所有権が守られていない点だ。これまでにも中国では,自動車や携帯電話機に音楽や映像といったコンテンツをダウンロードするビジネスモデルを構築しようと企業が尽力してきた。にもかかわらず,せっかく開発したコンテンツがすぐにコピーされてしまう。この結果,開発企業は意欲を失い,2度と自らが投資して新たなコンテンツ開発を手がけなくなると指摘する声は多い。知的所有権の保護こそが,中国市場の進展のための最大のハードルといえるだろう。
日本メーカーが主導?
中国で進むITSへの三つの主な取り組みのうち,③の情報提供サービスについては,渋滞情報をはじめとする実証実験が開始された。背景には,北京五輪の期間中に海外から訪れる要人がスムーズに移動できるようにすること,および将来的に交通情報システムの構築は重要との認識を中国政府が持っていることが挙げられる。
実際,2007~2008年に中国政府および北京市,上海市などの大都市は,道路脇への電子表示器の設置や,交通情報を提供するサービスの実証実験を開始した。交通情報の提供サービスについては,日本におけるVICS(vehicle information and communication system)と同様の渋滞情報サービスが中心である。
中国における交通情報の提供サービスの実証試験では,民間によるサービスと,国家や公共機関によるサービスが並行して実施されている。民間によるサービスの中で,既に実証実験が始まっているのが,トヨタ自動車の情報提供サービス「G-BOOK」,日産自動車の同「スターウイングス」,米General Motors Corp.の同「OnStar」などである(図3)。例えば,日本の自動車メーカーは,北京市の公的機関であるBTIC(Beijing Traffic Information Center)などとうまく連携しながら実証試験を進めており,2009年から本格的なサービスを開始すべく活動している。
これらの民間サービスでは当面,公的に収集した渋滞情報をテキスト配信する方法が中心となる。将来的には,自社のサービスに加入した会員の車両から走行情報を無線通信によって収集し,情報センターで分析・加工した渋滞予測データを会員に送信する,いわゆる「プローブ・カー・サービス」に進化させていくと考えられる。
上海や北京,広州,深センなどの主要都市では,既に数万台のタクシーを使ったプローブ・カー・サービスが試験的に始まっている。特に,北京のタクシーを使ったサービスでは,日本の渋滞情報サービスであるVICSの技術を応用した「RTIC」と呼ぶ配信方式を採用している。ただし,中国はRTICだけに絞り込んでいるわけではない。欧州の「RDS-TMC」方式や,GPRSやCDMAなどの携帯電話網を利用したショート・メール・メッセージなどで配信することも模索しており,中国ではさまざまな配信方式が並存して利用されそうだ。
PNDは多種多様に
中国のカーナビ需要は現在のところ,低価格のPNDが牽引している。しかし今後,PNDは単に価格が低いだけでは売れなくなり,付加価値競争が始まるだろう。例えば,デジタル放送やMP4といった動画への対応をはじめ,ハンズフリー機能や情報提供サービスを受信するための通信モジュールの付加が始まるとみられる。
さらに,リアビュー・カメラといった,運転支援システムと連携するために必要なモジュールを付加するなど,ユーザーにとって便利で使いやすく,価値がある機能をどんどん搭載していき,多種多様な製品が登場することになるだろう。
こうした高付加価値のPNDの開発競争が激しくなると,低価格のみを追求してきた中国メーカーはやがて技術的に付いていけなくなる可能性が高い。特に,車両と連携する技術は難しいだろう。現在200社以上あるPND参入企業は,ここ3~4年の内に20社程度にまで淘汰されてしまうのではないかと考えている。
一方で,多種多様な製品が求められる中国では,標準的な製品を展開する欧州のPNDメーカーも対応に苦慮するだろう。中国市場では,むしろユーザーの使いやすさを重視してきた日本のカーナビ・メーカーが強みを発揮するかもしれない。
低価格の純正カーナビが台頭
では,今後の中国カーナビ市場は,高付加価値のPNDが主流となるのであろうか。確かに2010~2012年ごろまでは多種多様なPNDを追求する時代が続きそうである。しかしながら,2010~2012年にかけて中国のカーナビ市場には大きな変化が訪れると考えている。それは「情報提供サービスの進展」と,「自動車メーカーによる純正カーナビの搭載率の急増」によってもたらされる。
その理由として,2010年ごろから自動車メーカーが情報提供サービスを本格的に提供するため,中国で販売する車両への純正カーナビの搭載率を急増させようと計画していることがある。その計画は2009年から始まり,2010~2012年には一般に広がると思われる。
ただ,現在の純正カーナビは非常に高価であることから,中国市場に広く受け入れられるためには,半導体メモリを記録媒体とした据置型の純正カーナビ(メモリ・カーナビ)を開発し,価格を10万円以下に下げる必要があるだろう。自動車メーカーとしても,中国市場の中心である5万元カー市場を勝ち抜くために,情報提供サービスの受信が可能なメモリ・カーナビを前面に打ち出してくるはずである。「高級車にはHDDカーナビを,5万元カーにはメモリ・カーナビを」という方針で差異化を進めることは十分考えられる。
自動車メーカーのこうした取り組みが現実のものとなれば,今後の中国カーナビ市場の拡大は,PNDよりもむしろ,純正のメモリ・カーナビが引っ張ると考える(図4)。しかも,純正のメモリ・カーナビでは,情報提供サービスへの対応力や車両との連携技術に強みを持つ日本のカーナビ・メーカーの活躍が期待できるだろう。
図1 現地メーカーの製品がずらりと並ぶ,上海の家電量販店中国国民の情報機器に対する関心は高く,現地メーカー製を中心にPNDが普及しつつある。上海の家電量販店には,PNDやナビゲーション機能を備えるPDAが並んでいる(2007年12月に撮影)。
図2 中国市場の8割弱はPND2007年の中国市場におけるカーナビとPNDを合計した販売台数は約154万台。そのうち,PNDが120万台,構成比で78%を占める。(図:矢野経済研究所推計)
図3 情報提供サービスが純正カーナビ拡大のカギに中国においても自動車メーカー主導の情報提供サービスが2009年から開始され,2010~2012年には一般化するだろう。2007年10月に開催された「ITS世界会議」では,トヨタ自動車が情報提供サービス「G-BOOK」を,日産自動車が同「スターウイングス」をデモンストレーションした(a,b)。
(a)トヨタ自動車の「G-BOOK」対応カーナビ
(b)日産自動車の「スターウイングス」対応カーナビ
図4 自動車メーカーが展開するメモリ・カーナビに急成長の可能性純正カーナビが高価格のままなら,今後もPNDが主流であり続けるだろう(a)。もっとも自動車メーカーが,車両との連携が可能な低価格のメモリ・カーナビ(純正メモリ・カーナビ)を中国市場で本格的に展開すれば,純正カーナビ市場が大きく伸びる可能性もあるだろう(b)。(図:矢野経済研究所推計)
(a)純正カーナビが高価格路線を維持した場合
(b)自動車メーカーが低価格の純正メモリ・カーナビを展開した場合