ひとでなし

 
 “ひとでなし”とは“人ではない”ということである。人でないということは獣や虫けらの部類かと思うけれど、我が家のポチがご主人様の手を咬んでも、ポチに向かって「この、人でなしめ!」とは決して言わない。獣は初めから獣であるので、獣に向かって「お前は人ではない。」と言うのは単なる客観的事実の叙述にすぎない。罵り言葉としての「ひとでなし」は人に対してしか効果を発揮しない。
 同義語に“人非人”がある。漢語の方がわかりやすい。“人であって人に非ず” だ。人でありながら人と認められないものを“人非人”と言う。人はある種の人間を人と認め、ある種の人間を人と認めない。生物学的な分類とは異なった“人”の概念が、世間一般の人々の間に共通した認識として形成されている。生物学的分類では、哺乳類であるとか、二足歩行をするとか、文明や文化を形成するとかいう、実際に存在する人間の様相から“人とはこういうものである”と分類づけられる。しかし、それとは別に私たちは“人とはこうあるべきだ”“あらねばならない”と考える。 そしてそこからはずれた人間を「ひとでなし」とか「人非人」とか呼んで罵るのである。
 「非国民」という古い言葉がある。国民に非ざる者なら外国人であるかと思えばそうではない。外国人に向かって「非国民」とは言わない。「非国民」と呼ばれるのは国民のみである。そうあらねばならぬ国民としての姿をはずれた者が非国民と呼ばれる。そうあらねばならぬと期待される国民の像はいったいどうやって社会一般に形成されていったのだろう?どうして多くの人は世間から要求される立派な国民像というものに自らをあてはめていったのだろう?
 オリンピックのスノーボード選手が日本の代表らしからぬ服装をしたといって非難を浴びた。強い横綱が横綱らしからぬ振る舞いをしたと引退を迫られた。スポーツの世界では実力があればいいじゃないかと、私なんかはそう思うのだけれど、そうはいかないのが世の中というものらしい。
 ヴィヨンの妻は「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」と言ったけれど、なかなかそうは開き直れない。
 “ひとでなし”と言われても、それが“人手なし”だったり“ヒトデなし”だったりしたら、「ネコの手でも貸しましょうか。」とか「そうね、最近は海も汚染されてるし。」とか、のん気に答えられるんだけどね。


 

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