石を磨く

 
 さて、旅行記は一休みして、ゴールデンウィークの話を。
 例のごとく、子どもたちが遊びに来て大賑わい。
 その内の一人と、犬一匹と、河原に散歩に出かけた。犬は放たれた途端川の中に一直線、子どももそれを追って、「この靴ならいいや」とじゃぶじゃぶと浅瀬に入る。私は一人と一匹の様子をときどき気にしながらぶらぶらと歩く。大小の様々な石がごろごろと転がる足元に、ふと緑色の小さな石が目に入った。そういえば昔子供の頃、親戚のおじさんに教わってこんなような石を磨いたっけ。深緑に黑の点々模様、ところどころきらっと光るかけらが入っている。この石を拾い上げ、川べりにかがみこんで水で濡らしながら、大きな石の上でごしごしとこする。こすったところが削れて平らになる。そうして、丸い石を形よく整えながら削っていって、カッティングされたダイヤモンドやエメラルドのように美しく加工していくのだ。
 子どもに声を掛けた。
「ほら、見てごらん。この石をこうやって削っていって、ダイヤモンドみたいな形にするの。」
子どもの目がきらきら輝く。
「僕もやる!」
「こういう緑っぽい石。他の石より柔らかいからこすると削れるんだよ。」
いくつか石を見つけて渡す。彼は夢中になって大きな石の上で小さな石をこすり始めた。

 遅くに出たのでもうすぐ夕飯の時間だ。帰らなきゃと促す。
「持って帰って家で削ろう。」
「わかった。」
と、案外素直に立ち上がるのでほっとした。すると彼は石を削る台の方になっていた大きな石をよいしょっと持ち上げて持って帰ろうとするではないか。
「え?その大きいのも持ってくの?」
「うん。」
「重たいからそれはやめれば?」
「大丈夫。」
 わざわざ重い石を持って行くことないのにと思った。しかし後からわかるのだが、結果的にこの大きな石がおおいに役立った。削る台にするのにちょうどいい石というのが家の周りでは見つからなかったし、コンクリートの上では上手く削れなかった。台になるほうの石も迷わず持ち帰った彼の先見の明を讃えたい。
 さて、この石磨きは、家にいた他の3人の子どもたちの目も輝かせた。袋から石を取り出すと、我先にと争って石を取り上げ、さっそく磨き始めた。
 ところが、しばらくは夢中になっていたが、時間が経つにつれてなかなか思い通りにいかないことがわかってくる。台の石がひとつしかないので、他の子はコンクリートの上で磨いている。そのせいなのかどうか、石の面がなかなか平らにならない。それとも力が足りないのか。そのうち夕飯の時間になり、石磨きは忘れられた。

 次の日、子どもたちは両親たちとそろって外に遊びに出かけた。私は留守番の間暇だったので、一番磨きにくそうだったごつごつした石を少し磨いておいてあげようと思い立った。ガレージの横にしゃがみこんでごしごしと磨く。長雨から抜け出した太陽が背中に暖かい。削っていると粘土色の水が台の大きな石と緑の小さな石に溜まるので時々水をかけて洗い、磨き具合を確かめる。元の石の形を生かしてどう削ろう、ここをもうちょっと斜めにしたらどうかな、名前を付けたいな、天使の涙?それともヴィーナスの横顔?月の雫?…など、たわいもないことを考えながらひたすら磨く。
 時間の感覚がなくなる。どれくらい経っただろう。我に返って腰を伸ばす。真昼の日射しがさんさんと照りつける。絶好の行楽日和。
 突然虚しさが襲ってきた。こんなことをして何になるんだろう。河原の石ころをただ磨くだけに時間を費やす私って…。価値のないものを拾い上げて磨いたからといって価値のあるものを作り出しているわけでもない。ああ、なんて虚しい。人生とはもしかしたらこの石磨きのようなものなのかもしれない。結局のところ何ごとも達成することなく、徒労のうちに生を終えるのだ。
 子どもの頃は虚しさなどつゆとも覚えず、とにかく完成させることに力を注いだ。その時それは確かに私にとって何か価値のある行為だったに違いない。
 昔、指環の上のエメラルドのように美しく削られたその石を、ペンダントにすればいいとおじさんが錐で穴を開けてくれた。しかし石が小さすぎて、穴のところから割れてしまった。その後私はもう一度挑戦してみようとは思わなかった。

 帰ってきた子供たちが私の磨いた石を見て、
「すご~い!きれい!!私のもやって。」
と大騒ぎになった。
「うーん、ごめん、もう疲れた。」

 ゴールデンウィークを一日残し、子ども達はそれぞれの家へと帰っていった。石をしっかり忘れずに持っていった子と、すでに興味を無くして庭に転がしたまま帰った子と。

 
 

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