争いのもと

 
 チベット人が何かしら民族としての危機感を抱いているとして、それが果たして統治上の直接的な抑圧によるものなのだろうかと、疑問に思う。
 2005年に青蔵鉄路(青海チベット鉄道)が開通し、チベットを訪れる観光客が飛躍的に増えた。交通手段の発達とともに、人的及び物資的な交流が盛んになり、経済が活発化する。こうなると商売上手な漢族の天下になることは想像がつくが、チベット人の市民も多かれ少なかれその経済活動に組み込まれていく。
 そして徐々に生活様式が変化する。精神的な生活に時間や心を割くより、物質的な生活に行動が捕らわれる方向に、シフトしていく。
 僧侶の存在というのは仏教に帰依し依存する人々の信仰心に支えられている。信者が信者としてのみ生きるのではなく、市民として活動するようになると、その変化に呼応して僧侶が自らの存在意義への信頼に以前ほど確信が持てなくなり、その不安感が、押し寄せる新しい変化の波をもたらす為政者に対する反発を生む、と考えられはしないだろうか。抑圧よりも、人々に対する宗教的拘束力が弱まっていくことが、宗教に存在の根拠を求める人々にとって脅威となっているのではないかと思うのだ。

  ダライ・ラマは独立ではなく高度な自治を求めてるのだと言う。けれど、宗教的指導者である彼がチベットに戻って政治的にも地域を統べることを求めるのなら、中国政府からすれば独立も自治も同じことで、チベット高原という戦略的に重要な地域を中央政府が直接掌握しにくくなる不安定要素を受け入れるはずがない。
 領土問題に関しては中国政府は一貫して、どんなことがあっても決して譲らないという原則を持っている。それはおそらく歴史の教訓であろう。
 私には“全チベット人”が中国政府の統治下で抑圧され苦しんでいるとは思えない。中国政府は、領土の安定と安全を脅かす要素に対しては容赦なく対応するということなのだと思う。
 対してダライ・ラマは人権という御旗を立て世界の世論を味方につけることで、チベットにおける自らの主導権を取り戻そうとしている。彼は偉大な宗教家であるだけでなく、老獪な政治家でもあるように見える。

  
 

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