错误的理论得到了诺贝尔经济奖/誤った理論が受賞した、ノーベル経済学賞 ノーベル経済学賞と、経済学のなぞ

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(C)東洋経済オンライン

ノーベル経済学賞を受賞した3人の1人、シラー教授。米国の住宅バブルにいちはやく警鐘を鳴らした(撮影:今井 康一)
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 今年のノーベル経済学賞受賞者が決定した。米シカゴ大のユージン?ファーマ、ラース?ピーター?ハンセン、そして、米エール大のロバート?シラーの3氏の共同受賞となった。受賞理由は、資産価格の決定要因の実証的分析だ。今回のノーベル経済学賞は画期的である。それを含めて、ポイントは3つあり、順番に見ていこう。

度胸がある、ノーベル賞委員会

 第一には、誤った理論がノーベル賞を取ったことが確実になったことである。

 3人が同時受賞となった理由のひとつは、資産価格の決定要因は経済学者にはわかっていないことにある。経済学者にわかっていないことの研究がノーベル賞になるわけだから、物理や化学の学者からしたら卒倒ものだろうが、これが経済学だ。

 このコラムでも散々指摘したとおり、現実の株価や為替は、ファンダメンタルズと呼ばれる実体、言い換えれば、企業業績や金利などにより決まるわけではない。しかし、無関係とも言えない。そのような現実の中で、株価や為替などの金融資産の市場価格がその資産のリスクとリターンというファンダメンタルズでほとんどすべて説明できると主張し続けるファーマと、それに疑問を呈し、いや、真っ向から反論し続けているシラーが同時に受賞するのであるから、どちらかは必ず間違っていることになる。どちらかが必ず間違いとなることを承知で、ノーベル賞を与えた、将来、完全に誤った主張をし続けた学者がノーベル賞をもらっていたということが起こることが100%確実な中で、二人に賞を与えることにしたのだから、ノーベル賞委員会も度胸がある。

 逆に言えば、これが経済と経済学の現実であり、自然科学との大きな違いだ。


これには3つの理由がある。

第一には、経済学は未熟な学問だということだ。経済学には、経済のことはまだ何もわかっていないのだ。資産価格の変動の理由は、わからない。少なくとも学問的には確立した理論、説明方法はない。そこで、今回のノーベル賞は、現時点での2つの有力説のそれぞれの代表、効率的市場仮説を中心とした現代ファイナンス理論のファーマと、投資家行動がすべてを決める行動ファイナンス理論のシラーが同時に受賞することになったのである。

 何も確定的なことは言えないが、わからないことに果敢に切れ込んでいる経済学の2つの理論が受賞することになったのである。果敢に切れ込む経済学者もすごいが、切り込み隊長にノーベル賞をやる委員会の度胸がすごい。

動き続ける「的」

 第二には、これはやむをえない面があるということだ。すなわち、自然科学においては、原理は動かない。不変の真理がある。重力というものが明日から存在しなかったら困るだろう。しかし、経済は動く。社会も動く。リーマンショック前までの資産市場とその後の資産市場は明らかに異なった動きをしている。前後の動きをつなぐのは、どちらでも主体である経済主体、金融機関であり、それを動かしている人間であるが、人間自体の行動原理も動いている可能性がある。そうなれば、その動いている人間が複雑に絡み合う社会や市場の動きも、原理そのものが変わっていくだろう。そして、そもそも原理があるのか、という問題まで正当な疑問として生じてくるのだ。

 つまり、有名な投資家ジョージ?ソロス、彼は自称だが経済学者(あるいは社会学者)を断念した投資家であるが、断念した理由は、的は動き続けている、そして、研究、分析すること自体が的を動かす、と述べているように、市場は動き続け、それは学問により、また動いてしまうのだ。

 現代ファイナンス理論が広まれば、それを勉強した優秀な学生が金融機関で運用を行えば、その理論に近い世界が生まれるだろう。一方で、そういう動きをすると理解した現場のプロは、彼らの動きを予測して、仕掛けることもできるだろう。その仕掛けを分析して、学会に発表すれば、その仕掛けはもはや通用しなくなるが、その仕掛けをさらに利用しようとする可能性もある。これが動く的と学問、分析の関係である。的とは、投資家であり、市場である。

 第三には、経済や市場というものが、わかっていない状態でも、何らかのヒントをつかみたいというニーズがあまりに大きいということだ。経済や金融市場の社会的影響力が圧倒的であるために、まだ未熟な経済学に期待が集まるのであり、未熟なままでノーベル賞を与えても、さらなる発展を促すということを社会の側がニーズとして持っているということだ。


さて、残り2つの今回のノーベル経済学賞のポイントは、紙幅の関係から簡単に述べるにとどめよう。

大衆化したノーベル賞

 もうひとつのポイントは、ノーベル賞が大衆化したということである。これは第一のポイントとも関係するが、受賞分野が、現代ファイナンスとか、行動ファイナンスといった、専門家によるカテゴリーに対応せず、現実の世の中のトピックがそのまま使われているということだ。つまり、資産市場の価格形成のなぞ、それに切り込んだ、ということだ。ハンセンについて、触れる機会がなかったが、彼の学問的アプローチは、方法論として非常に重要で、この分野の発展には今後とも重要であり、彼が受賞するのは当然なのだが、シラーとファーマという組み合わせは、専門家には思いつかない。同じような研究をしている同等の学者にも与えようということになるからだ。そういった学者の側の常識ではなく、世の中から見て役に立つ重要な学問として経済学が見られており、トピックの設定が、大衆にもわかる、社会の側の要請であることが素晴らしいことだ。これは、経済学が未熟でも、社会のニーズがあるという意味で学問の将来性が高いことを示している。

 第三には、日本人の受賞についてである。

  1.  日本人として、今、一番近いといわれているのはプリンストン大学の清滝信宏氏である。しかし、実は、彼が日本人であるかどうかは、どうでもいいことなのだ。重要なのは、国籍や人種ではなく、研究拠点をどこに置いているか、なのだ。

 かつて、米国に長く在住している研究者が、ノーベル賞を受賞したことで、「日本人受賞者」として、日本の取材陣が殺到した。だが、本人は、そういわれることに違和感を感じていたような雰囲気があったが、まさにそういうことなのだ。

 重要なのは、日本の大学などの研究拠点が価値あるものかどうか、「場」として、どれだけ人類の英知を生み出すことができているか、ということなのだ。

 経済学以外の他の分野では、日本人の受賞者が、近年比較的続いており、たとえば日本人の理科の能力の高さを指摘されることもあるが、それは関係ない。ノーベル賞を取るかどうか、は才能ではなく、環境と努力だからだ。重要なのは、それらの研究者が、日本の大学を研究拠点として選んでいたかどうかにあるのだ。だから、もし、中国人やインド人あるいはスウェーデン人が日本の大学で研究しており、彼らが受賞したとなれば、それは、日本人が受賞した以上に、日本にとって意義の大きいことなのだ。


 

今世紀中は、日本拠点のノーベル経済学者は出ない

 重要なことは、ノーベル賞の受賞実績となった研究をどこで生み出し、その後、一流となった研究者が、ノーベル賞受賞まで、どこに身を置いていたのか、ということが重要なのだ。その実績は、学会では直ちに評価されるから、ノーベル賞受賞前から、オファーが殺到する。だから、そのような研究者は、さらなる研究の発展のために、好きなところを選べる。彼らが選んだ場所というのは、研究環境としてベストのところはずなのだ。だから、受賞時にどこにいるか、というのは、どこにいたときの研究実績であるかと同様にきわめて重要なのだ。

 前述の清滝信宏氏は、ハーバードでPhD(博士号)を取得後は、米国、ロンドン、そして米国と移っている。LSE(ロンドン)のときの実績が一番の核となるだろうが、いずれにせよ、日本ではない。したがって、彼がノーベル経済学賞を受賞した場合には、日本人としては、悲嘆にくれなければならないのだ。つまり、そんな才能あふれる日本人が、日本という母国ではなく、外で研究を続けていたことに。

 逆に言えば、日本の大学は、批判を受けながらも、かつては、知を生み出し続けていたのであり、近年までは、彼らの欧米への流出を抑えるだけの価値は持っていたということなのだ。最近、iPS細胞の研究者が米国へ流出したことは、したがって、もっとも憂うべきことなのだ。

 ノーベル経済学賞を受賞する、日本の研究機関を拠点とする経済学者は、今世紀中には出ないだろう

 それが私の悲しい予言である。
 

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