以下、『司馬遼太郎対話選集1~この国のはじまりについて~』(文芸春秋)、司馬遼太郎と丸谷才一の対談「日本文化史の謎~なぜ天皇が恋の歌を詠まなくなったか~」より引用。
司馬 …いや、ぼくは前に書いたことなんですけれども、明治国家の変質を典型的にいいあらわしたエピソードがあるんです。
柳原二位局というのは、大正天皇の母親にあたる人です。明治天皇までは一夫多妻で、大正柳原二位局は二流の公家から出た人ですが、頭のいい人だったらしい。
あるとき、ご亭主の明治天皇が軍服を着て白い馬に乘っているのをみて、あんなことをしていれば天皇家の宮廷も滅びると、まわりの女官たちにいったそうですね。天皇とか公家とかいうのは、ああいう武人の格好をしなかったからここまで持ってきたんだと。
丸谷 恋歌をやめて、馬に乘ったわけですな(笑)。
司馬 維新の志士はみなナポレオンとワシントンの崇拝者だったから、どうしても天皇を白馬に乘せたがる。柳原さんは、それに血なまぐささを感じたんでしょうね。天皇が権力者になったら、もうおしまいだということでしょう。しかし、恋歌の時代にもどるとなると、承久の乱以前にもどらなきゃ仕様がないわけだな(笑)。
大正天皇と昭和天皇との問題はそこから出てきて、結局、太平洋戦争の大敗戦を柳原二位局がよく予言していたと思いますね。
(引用おわり)
もともと天皇とは世俗の権力を握る存在ではなかった。天皇とは政治家ではなく、五穀豊穣を祈る呪術家である。――これは司馬氏の対談を読んだ私の理解であって、私の理解力、読解力が正しいかどうかは知らない。ただ、こう理解すると、天皇の存在の意味だとか、日本の国の成り立ちだとか、国家の性格がなんとなく見えてくるような気がする。
日本人は仏教徒だとか或いは無信仰だとか言ったりするけれど、日本人の精神の根にあるのは八百万の神の国だという意識ではなかろうかと思った。私たちが、日本人であるということの根拠や誇り、特殊性を求めた場合、そこに行き着くのではないか。近代の市民社会が自由な個人の集団であるのに対して、こういう考え方は民族主義的ということになるのかもしれない。しかし、同じ民族の集団という感覚には、まるで長旅から自分の巣に帰ったかのような安心感、甘美な安らぎがあるのではないかと思う。例えそれが作り上げられた幻想だとしても。