志賀直哉の『山鳩』

 
 久しぶりに志賀直哉を読んだ。新潮文庫の『灰色の月・万暦赤絵』という短編集である。
 
昔はこの作家に特に興味を持たなかったが、今読むと、とてもいい。後期の短編集ということもあって、筆致が穏やかだということもあるのかもしれないが、熟成されたふくよかな空気を感じた。現実を現実としてありのまま受け入れつつ、芯の部分は決して揺らがないというところがあって、読んでいて安心感がある。

 印象に残った話をひとつ、挙げておこう。長くなるけれど。
 
『山鳩』より。

 “私”は、住んでいる熱海の山荘で、よく二羽一緒に飛んでいる山鳩を見かけていた。ある日、鳥撃ちの名人である友人(福田君)が遊びにやって来て、ひとりで近所に撃ちに出かけ、まだ体温の残っている山鳩とヒヨドリとホオジロを持って戻ってきた。

  (以下、引用)…

 翌日、私は山鳩が一羽だけで飛んでいるのを見た。山鳩の飛び方は妙に気忙しい感じがする。一羽が先に飛び、四五間あとから、他の一羽が遅れじと一生懸命に随いて行く。毎日、それを見ていたのだが、今はそれが一羽になり、一羽で日に何度となく、私の眼の前を往ったり来たりした。私はその時、一緒に食った小綬鶏、鵯等に就いては何とも思わなかったし、福田君が他所で撃った山鳩に対しても、そういう気持ちは起こらなかったが、幾月かの間、見て、馴染みになった夫婦の山鳩が、一羽で飛んでいるのを見ると余りいい気持ちがしなかった。撃ったのは自分ではないが、食ったのは自分だということも気が咎めた。

 …(中略)…

 最近、又猟期に入った。近所の知合いでS氏という人は血統書きのついた高価なイングリッシュ・セッターを二頭も飼っていて、猟服姿でよくこの辺を徘徊している。然し、この人の場合は猟犬は警戒していなければ危ないが、鳥は安心していてもいい腕前だそうだ。可恐いのは地下足袋の福田蘭童で、四五日前に来た時、

「今年はこの辺はやめて貰おうかな」というと、

「そんなに気になるなら、残った方も片づけて上げましょうか?」

と笑いながら言う。彼は鳥にとっては、そういう恐ろしい男である。

(引用終わり)

 
 何か、物でも生き物でも、それが自分にとって他とは異なるものとして存在すること、自分と特別な関係にあるということ、それが愛情の土台となるのだと思った。鳥を鳥としか見ず、かつ、銃の腕も確かな福田くんこそ、鳥にとって「恐ろしい男」なのである。

  唐突だが、先日書いた映画『猟人日記』の話に戻ると、主人公のジョーは、もしかしたら、自分が見捨てて(殺した)恋人との特別な関係を薄めるために、多くの女性と関係したのではないかと思った。キャシーという自分にとって特別な関係であった恋人を、自分と一時、肉体的に繋がるだけの多くの女性のうちの一人として、その存在の意味を薄めることによって、罪の意識も薄めようとしたのではないか。そうすると、周囲の人間との関わり、世界との関わりは限りなく薄められていく。人を、個性を持ったその人そのものではなく、どれも均等、均質に扱うということは、世界を平板に、奥行きのないものとして捉えることであり、その結果、この世界に自分を繋ぎとめるものが失われてしまう。『猟人日記』に漂う不気味な感じは、おそらくここに起因するのだと思う。手鏡に刻まれた
「自分を見て/私を想って/愛をこめて.C」というキャシーの言葉は、とうとうジョーを捕らえておくことができなかった。手鏡を捨て去るのと同時にジョーは人間として大切な何かを捨て去ってしまったのだ。話の結末としては、彼は法的、社会的な制裁をまんまと逃れたことになっている。ところが、観客が彼の行方を思うとき、決して幸福な未来を想像しない。手鏡を捨てるというその場面は、彼の人生を暗黑の方向へ押しやる何か決定的な結末だという感じを受けて、観客は、その未来を危惧するのである。

  先日、秋葉原で無差別殺傷事件があり、多くの人が犠牲になった。犯人は、誰かに止めて欲しかった、と供述し、ワイドショーではそれは言い訳だと非難していた。私は、彼が「とめて欲しかった」と言うのは、単に彼の行動を予測し諌める言葉のことを指すのではないように思う。彼は“非人間的な”世界に傾倒していく自分を、“人間的な”世界に繋ぎ留めてくれる何かを欲していたのではないだろうか。だとすると、彼が“彼女”を欲しがっていたというのがとてもよくわかる。自分にとって特別で大切な誰かが存在している、そしてその誰かにとって自分も又唯一無二の特別な存在であるという信念、それが私たちが“人間的”であるということの根幹を支えているのだと思う。
 

 

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