村上春樹のカタルーニャ国際賞受賞スピーチについて(続き)

 
 標題のスピーチについて、ざっと読んだだけで全面的に賛成などと、前回簡単に書いてしまったけれど、私はちゃんと内容を理解しているだろうかと、改めて考えた。そこでスピーチ全文をもう一度よく読み直してみると、平易な文章とわかりやすい論理で書かれているにもかかわらず、実はなかなか大変な事を言っているのだということに気づく。
 
 村上春樹の小説の出発点は、私の理解によればたぶん、我と彼をはっきり区別せず自他がくっつきあうような日本の風土からの脱出だったんじゃないかと思う。如何に切り離すか、というところから出発し、小説を書き続けるという道のりを経て、最近は如何にコミットメントするか(関わりあうか)、という地点にたどり着いている。

 スピーチ原文の中に、「心をひとつにして」という言葉が出てくる。
 震災直後、私が一番嫌悪感を感じたのが、公共のあちこちで耳にする「心をひとつにしてがんばろう」という呼びかけだった。戦争を体験してない私なのに、戦時中の思想統制に通じる怖さを感じたからである。
 ところが、村上春樹の「心をひとつにして」は、そういう怖さをちっとも感じさせない。これはどういうわけだろうと思った。考えてみると、それは何のために誰のために心をひとつにするのか、ということじゃなかろうか。
 為政者の都合のよいように、右向け右、と言われたらいっせいに右を向かされるためならば抵抗と恐怖を免れ得ないけれど、「晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせて」進めるための作業ならば、私は喜んで心をひとつにしたいと思う。新しい倫理や規範をみんなの手で作り上げていく喜びを分かち合いたいと思う。


 世間では、原爆と原発を一緒にする考え方には違和感がある、という声が多くあるようだ。それから日本国民全体を加害者とすることへの違和感。村上氏のスピーチへの批判として、このふたつの点を挙げる声を聞く。

 スピーチはまず、震災そのものの威力を具体的な数字を用いて述べることから始まっている。地震の規模、被害者の数、行方不明者の数…、地震に慣れている日本人ですら大きなショックを受けなかったものがいないという恐ろしい自然災害であるということが強く印象づけられる。しかし次に彼が語るのは、そういう自然環境の中で日本人はずっと生きてきたという事実である。それは「無常感」という形で、日本人の精神性にまで影響を及ぼし、「民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきた」。日本人はそうやってずっと自然と共存して生きてきたのだ。結局のところ、地震による大きな被害や損失を日本人はなんとか乘り越えていくだろう。今までそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのだから。「それについて、僕はあまり心配してい」ない。

 ならば、「僕」は、何について、心配するのか?
 「僕」が心配するのは、「簡単には修復できないものごと」、「倫理であり、たとえば規範」、「いったん損なわれてしまえば、簡単には元通りにできない」形のないもの、「具体的に言えば、福島の原子力発電所のこと」である。
 私は、5月にこのブログで紹介した社会学者のウルリッヒ・ベック氏の言葉を、思い出した。彼も同じような事を言っていた。福島の原発事故は空間的時間的に被害の及ぶ範囲、規模が通常の事故とはまったく異なる「限界のない新しいタイプのリスク」であり、しかもそれは自然ではなく、人間が決めたことなのだと。

 次に村上氏は、日本人が、歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民であるという事実を提示する。彼は、日本人は「核という圧倒的な力」による人類への破壊の規模と時間的影響力を身をもって知った唯一の国民であることを私たちに思い出させる。
 計り知れない破壊力を持つ「圧倒的な力」が使われるような事態を二度と引き起こさない、そのために、戦後、日本は武力を放棄し、「経済的に豊かになること」と「平和を希求すること」この二つを国家の新しい指針として掲げてきた。
 ならば、日本人がそうやって希求した平和で豊かな社会は、なぜ失われてしまったのか?

 「理由は簡単です。「効率」です。」

 がむしゃらに効率(利益)を上げることを求める社会、それを規範とする社会、そういう「歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身」にも責任があると、村上氏は言う。
 広島と長崎への原爆投下によって、「核の圧倒的な力」を身をもって知り、平和で豊かな社会を求めたはずの日本が、いつの間にか「効率」や「便宜」のために、その「圧倒的な力」を自ら行使するようになった。我々は「急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、大事な道筋を見失ってしまった」のだった。村上氏は、それを止められなかった我々日本人の倫理を問う。

 自然災害によって多くの命を一度に失ったばかりでなく、人間によって作り出された新しいタイプのリスクがまだ収束の見込みもないまま我々の前に立ちはだかっている。この暗雲をどう払い、進むべき道筋をどう立てていったらいいのか、多くの人が混乱と不安を感じていると思う。
 具体的な、つまり物質的な日本の再建は「それを専門とする人々の仕事」となる。しかし、打ちのめされた精神を奮い立たせ、前に進むためには、村上氏の言うように、このような結果をもたらした基準を見直し、新しい倫理と規範を作り、日本全体がそれを共有する必要があるのではないだろうか。

 それで、話を始めの方に戻せば、「晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせて」、「平和で豊かな社会」を築いていけたらいいと、私は思う。



 

小春日和 发表评论于
回复森林朝阳的评论:
森林朝陽さん、ありがとうございます。
日本に留学してらしたんですね。どうりで自然な日本語だと思いました。
私は学生の時、勉強があまり好きではなかったので、ゼミの発表には四苦八苦していました。
今の方が、評論や論文を読み解いたりまとめたりすることをずっと楽しんでいます。

何か起きたときに、集団でそれを引き受ける、ということは、確かに日本人の特質かもしれませんね。
それには良い面もあるし、悪い面もあります。
集団で痛みを分かち合えば、ひとりひとりの痛みがやわらぎ、困難に耐え忍ぶことができるけれど、一方で、みんな(集団や組織)の責任にしてしまって個人の責任が曖昧になってしまう、最終的に誰もきちんとした責任をとらない、ということにもなりかねません。難しいことだと思います。

でもそれが日本人なのですから、その性質に沿って、その性質を生かしながら、なんとかやっていくしかないのでしょう。

森林朝阳 发表评论于
村上春樹さんのカタルーニャ国際賞スピーチ原稿を読みました。日本留学時代、ゼミ発表の準備を懐かしく思い出しています。一方、きっと小春さんもかつてゼミのために、資料のレジメ(要約)を読み取り、書き出す訓練を旨く受けたことがあるでしょう。文章の内容ひいては著者の意味を読み取ることはそう簡単ではないと思うが、僕は小春さんが村上スピーチ、彼のロジックと言いたいことを間違えなく把握できたと思います。それをさらに僕なりに要約すれば、つまり“効率”(への追求)のために、もとより“無常”のメンタリテイを持ってるはずの日本人は正しい倫理や規範を歪められ、さらに自分の被爆の歴史と核の危ない現実を無視する“便宜”(のための政策)を容認したところで、過ちをしてしまい、そして結局自分自身の加害者になってしまった。と村上春樹は主張してますね。これに対して、僕は当初“賛成できません”と言ったが、少し大雑把すぎるといまさら反省しています。“日本人=加害者”という言い方はもし単に責任論という見方から妥当ではないと今でも僕は信じていますが、しかし村上スピーチを通してみれば、それは倫理と規範の範囲内にとどまり、しかもそれは(僕のみるところ)あくまで村上春樹のいわゆる“脱原”もしくは“脱核”を訴えるモチーフですから、彼のいう“加害者”のことをそう神経質に受け止めないほうが良いと思います。
しかしながら、よその人なら仮に同じこと(つまり“脱原”や“脱核”)を訴える時、恐らく敢えて自国民を追及しない別の方法でしただろう。僕はそういう意味で村上春樹も、そして小春さんも日本人だと断言して、そしてリスベクトしています。
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