デモ(補足)

 
 昨日書いたフジテレビへの抗議のデモについて、ちょっと補足しておきたい。
 昨日、私は韓流が作られた流行だというような意味のことを書いたけれど、実際に韓国から発信されるドラマや音楽に魅力があることは確かだと思う。もし誰もそれに魅力を感じないのであれば、視聴率も取れない。低予算でかつ視聴率が取れるからこそ、テレビ局も飛びつくのである。
 小学生の姪っ子は、KARAや少女時代に夢中である。踊りや歌を一所懸命練習している。AKB48には全然興味がないみたいだ。母の友人には韓流ドラマファンが少なからずいる。それが理由で韓国旅行にも出かける。
 一時に比べればその人気は衰えているようだけれども、まだまだ根強いファンがいて視聴率やCDの売上を支えている。一方そういう潮流に対してうんざりしたりイラつく人達がいて、しかしもし今の日本に豊かで充実した文化があるのなら、例え一部の人たちの間で韓流がもてはやされたとしても、それほど癇に障りはしないんじゃないか。対抗する日本の文化が脆弱化しているから、見過ごす余裕がない。骨太のドラマやちゃんとした音楽に対する欲求を満たしてくれる自前の受け皿がないから、欲求不満が高まる。
 誰だったか、お笑い芸人が「見たくなければ、見なければいい」と言ったそうだ。しかし、見たくないなら他に何を見ればいいのか、見るべき価値のあるものが見出せない、からっぽだ、大众文化が脆弱化している、というところに問題がある。これは、日本全体として自国の文化を見直さなければならない、個人の選択や趣味として放っては置かれない問題だと思う。
 
 ちょっと話は飛ぶけれど、中国の高速鉄道のアメリカでの特許申請に対して過剰に反応したり、多くの人命が失われた事故に対して、やっぱり、といった風な反応を見せたりするのも、日本の自信のなさや不安の裏返しの表現であるように思う。
 今までずっと日本が追求してきた豊かな社会というのは、基本的に物質的豊かさを求めるものであった。ヒステリックな反応は、私には、震災や原発事故によって、経済の基盤や世界の最先端技術を担うという自負が崩れていく不安から逃れようとしている表れであるかのように見える。

 そこでもう一度、前の記事の最後に戻ると、こういう時に、失われていくプライドや不安を埋める精神的支柱を求めて、愛国主義だとか排外主義が台頭する隙ができることを私は危惧する。



 

登录后才可评论.